◎Tango 私のブエノスアイレス〜タンゴ紀行〜

◾︎私のブエノスアイレス *1◼︎

2018/12/13

 

昨日、ブエノスアイレスから帰国してはじめて、ひとりきりの部屋でタンゴを聴いた。

 9月24日に帰国してからちょうど20日。長かったな。それまでレッスンしたりミロンガに参加したりはしていたけれど、みんなといればだいじょうぶでも、ひとりきりだと、どうしても無理だった。

 きっかけは10月14日の等々力ミロンガだったみたい。とてもここちよく過ごせて、タンゴの音楽と一体になってパートナーとともに3分間の刹那の関係を楽しむ、という感覚が、何度か体感できたことは、ほんとうに嬉しかった。

 タンゴを私、やめてしまうんじゃないか、って危惧が体の真ん中にあって、寝ても覚めても、その感覚は消えなかったけれど、どうやらまだ続けるもよう。

 私、ブエノスアイレスで、初日からおかしくなっていた。

 自分でも、私、おかしい、って感じるほどだった。

 3日目くらいに思った。ああ、人はこうして気がふれてゆくのだ。

 胸がしめあげられ、体がふるえて、足先までふるえて、全身があわだって、流れ落ちる涙をまったくコントロールできない、という、号泣寸前までいってしまうという、みょうにハイテンションだったかと思えば、真っ暗闇の底の底までおちてゆく、そんな経験を私は、たしかにしてきた。

 あの感覚を自分なりに、20日間、保存してきたつもり。それがたいせつなものなのかどうかもわからなかったけれど、とにかく保存だけはしてきたつもり。

 そしていま、少しでもあの経験を書き残しておきたい、という気分に、ようやくなっている。

 

 飛行機に乗る前は、とにかく締め切りの原稿を仕上げることに集中していて、スーツケースへ荷物をつめたのもぎりぎり。なんとか編集者さんに原稿を送って、気づいたら飛行機に乗って、ブエノスにむかっていた。

 書きたい小説の構想があり、それは飛行機の場面からスタートするので、機内で思いをめぐらせようと、ノートを用意していたけれど、ぜんぜんだめで、薬を飲んでひたすら眠って過ごした。ちなみにこの小さなブルーのノート、一度だけ、3ページ書いただけ。滞在中、書くなんていう状態ではなかった。

 先生夫婦ふくめて計6人の旅。ブエノスアイレスで2人が合流。途中で1人がふいに登場して、ものすごい贈り物を爆弾のように投げこんで、あっという間に次の地に旅立っていった。

 私はとにかく、みんなに迷惑をかけないように、たおれないように、それを最低かつ最高の目標とした。事前に、どこか観光したいところがありますか? と訊ねられたけれど、私に観光したいところはなかった。ただ、ミロンガに行きたかった。できるだけ多くのミロンガに行って、その場の雰囲気に触れたかった。それだけだった。

 そんなに多くはないけれど、ヨーロッパを主とした海外へは何度も出かけている。そのときそのときでテーマがあった。たいていはその街の歴史、好きなアーティストが住んだ場所、アーティストたちが集った箇所、そして美術館にゆくこと。芸術家の人生、作品、そこから自分がなにを感じるか。

 けれど今回のテーマはタンゴ。とはいってもタンゴの歴史や音楽家について知るための旅ではない。私なりにタンゴを知りたい。踊り手の側として知りたい。それだけ。

 地球の裏側にある街。とにかく移動に泣きたいくらいの時間がかかるから、10日間の日程とはいえ、実際には一週間のブエノスアイレス。

 事前の簡単なスケジュールだけを見ても蒼白となるくらいの、私にとってはハードなスケジュールが組まれていたけれど、じっさい、ハードだった。

 5日間連続で、たけし先生の先生であるシルビアのレッスンが12時から13時半まで。

 毎晩、深夜までミロンガ。その間の時間はたいていランチ後、タンゴシューズを買ったりして、ホテルに戻って着替えてミロンガへ。

 ミロンガから帰るのがたいてい午前3時くらい。翌日10時に起きて、したくをしてレッスンへ。そんな日々だった。

 思い出せるかぎり、そしていま思うことをできるだけ率直に書いてゆこうと思う。時間をかけて。

***

 

1日目は、いわゆる「観光」にあてられていた。

 ホテルに荷物を置き、「ボカ地区」へ。

 タンゴ発祥の地といわれている港町は観光客でいっぱい。写真で見ていた印象と変わらない。カラフルな建物。ところどころのレストラン、カフェから大音量のタンゴがどくどくと溢れ出てきて、いくつものメロディ、バンドネオンが重なり合う。はがれかけたカルロス・ガルデルのポスター。

 観光客目当てで路上でタンゴを踊るダンサーたち。すれてうらぶれて悲壮感までをも私に感じさせた彼らに私は尋ねたかった。タンゴに対する想いを、なぜ踊るのかを、そしてどの曲を踊っているときが、もっとも無になれるのか、そんなことを尋ねたい衝動にかられた。

 彼らを見ていて、目がうるんでしまった。彼らのタンゴに感動したのではない。おそらく、しょっぱなから、タンゴの、ひとつの真の姿を、そこに見てしまったように思ったからではなかったか。

 美しさとかステップとか、そういうことと程遠いところにある、そう、踊りとか、そういうことではない、タンゴが生まれたときの姿、あるいはタンゴが生まれた理由みたいなものの片鱗をそこに。

 うまく表現できないのがもどかしい。

 ボカ地区で軽く食事をしてからサンテルモの蚤の市へ。

 私、それほど欲しいものはないの、と言いつつ、あまりにも安いので、赤い皮のバングルとブルーの石が美しいハンドメイドのリングを買った。作った本人が売っている、というのが好きだったこともある。

 ひととおりお店を眺め終わったころ、タンゴが聴こえてきた。人だかりがしている。広場でダンサーがタンゴを踊っている。女性は妊婦。臨月に近いおなかで、楽しそうに踊っている。一曲終わるたびに拍手がおこる。私は背伸びをしたりジャンプをしたりして、眺める。

 こんなふうにジャンプまでして、こういったものを見たことって、記憶にない。だいたい、人だかりがしているところは避けているくらいだから。

 だから、すでにこのときから私のなかで異変が起こっていたのだといまは思う。

 ボカ地区で見たダンサーから得た印象とはまた違ったものがあった。楽しそう、というところが決定的に違っていた。そしてそれは私が重要とするところでもあるのだ。

 1日目の昼間。ふたつの地区を、それほどの感動もなく歩いてわかったことは、それが観光客目当てであるとはいえ、たしかに、この地には日常的にタンゴがあるのだ、ということ。

 夕刻、近くのレストラン、Gran Parrilla del Plataで食事。

 私は常日頃から食が細くお肉が苦手という、ブエノスにまったく合わない体質なところにもってきて、胸がいっぱいなこともあり、ほとんど口にできない。ふんいきだけ楽しむ。アメリカから合流したなつかしい2人との再会がなによりのご馳走なのだと思いながら、ときを過ごした。

 そしてその夜、ブエノスアイレスではじめてのミロンガへ行った。

(<2>につづく)

(2018.10.17)

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