■私のブエノスアイレス*2■
2018/12/13
タンゴをはじめて2年。ようやく日本のミロンガでも「はじめたばかりなんです」を言わなく(というか、言ってはいけないような時間を経過したようで、言えなく)なってきたくらいの状況。
そんななのに、ブエノスアイレスのミロンガで踊るなんて、できるのかなあ。
日本にいるころからそんなふうに思っていた。でも、いざとなればお友だちや先生が踊ってくださるだろうし、なるようになるわ。
それにしてもブエノスアイレス、初ミロンガ。楽しみに出かけた。タンゴシューズは日本から一足だけもってきていた。もうぼろぼろ、こわれる寸前の、はじめて買ったタンゴシューズを。
(*写真は真新しいときの。ぼろぼろになったこのシューズは、最終日、ホテルチェックアウトのときに部屋に置いてきた。ブエノスに埋葬されるあなたは幸せよ、と言いながら。シューズの話はまたのちほど)
はじめてのミロンガは「VIVA LA PEPA」。
入口からすぐのところのテーブルに座る。赤ワインで乾杯して、会場を眺める。広い。正面、とても遠くに思えるところにステージがあり、ステージの真ん中にDJがいたのが、なんだかおかしかった。
22時スタート。それほど混んでいなかった。
この日のことはよく覚えていない。どんな曲が流れていたのかも、何人の人に誘われて踊ったのかも、あまり覚えていない。何人かの人から誘われて踊った。会話もしたけれど、ブエノスアイレスの人もいれば、どこかほかの国から来ている人もいた。その程度の記憶。
今年のはじめからアメリカに行ってしまっていたお友だちと、9か月ぶりに踊った。彼がパートナーと踊るのを見ていても何か変化は感じたけれど、踊ってみてよくわかった。彼がタンゴからまったく離れていないどころか、彼なりにすごくタンゴを深めているということ、そして何かをつかんだということ、彼のタンゴというのが、ものすごい勢いで形成されはじめていること。
踊らないとわからないことだ。彼と踊って、それはもちろんなつかしく心地よかったけれど、この9か月間、彼がタンゴといかに真剣に向き合っていたのか、その向き合い方、熱量……、情熱と言ってしまったら私、絶望しちゃうから、情熱とは言いたくないけれど、たしかに私は、自分と彼との間にその熱量の差を感じた。
そして、これは、その後のほかのミロンガにもほぼ共通している私の感覚なのだけれど、「VIVA LA PEPA」はじつに自由だった。すくなくとも私はそう感じた。
だから、いつも東京のミロンガや、ロカで、ときどき踊る彼女に言った。「ねえ、踊りたい。リードして」。彼女はすこし躊躇したと思う。でも、私が「だいじょうぶ、ここなら、だいじょうぶ」(なんの根拠もないのに)と強引に言うと、にっこりと立ち上がってくれた。
彼女とのタンゴは、男性と踊るのとはまるで違う。私もときおりリードすることはある。お互い、ほぼバルドッサという基本的なステップだけで踊るのだけど、そのぶん、一緒に音を聴いている感覚や、おなじようにステップを踏めているか、ということに集中できる。一方で、やわらかなリラックス感もある。
フロアに出て、彼女が私の手をとり、踊り始める。私はここちよさに身をゆだねる。誰がどう見ているかなんて、どうでもよかった。私はそのとき彼女と踊りたかった。そしてこんなにここちよいなら、どうでもいい。
一曲のちょうど半分くらいのころだろうか。
突然、彼女が動きをとめて、そのまま止まってしまった。
私、ミロンガで踊っていて、相手が止まって立ちつくしてしまう、という経験をはじめてした。初体験。
見ると、彼女はぼろぼろ泣いていた。ごめんなさい、と言いながら泣いていた。
私は彼女に言った。「じゃ、ここから私がリードするね」。肩をふるわせながら泣く彼女を私は抱くようにして踊った。稚拙なリードではあっても、想いだけは周囲の男性に負けない、という想いで踊った。……というのはいま思うことで、そのときは、ただただ、音楽とともに彼女をやさしくリードしたかった。
私は彼女の涙に弱くて、これまでに何度かもらい泣きをしたことがあった。
踊っているときにはこらえたけれど、テーブルに戻ったら、ちょっとだけ涙してしまった。
彼女も昂っている。私だけじゃない、彼女もまた感情のひだが、いつも以上に敏感になっていたのだろう。
少し経って、先生が私に彼女の涙の理由をこう言った。「ブエノスに来てはじめて幸せを感じたんだって」。彼女は2度目のブエノス。最初はまだほとんどタンゴを始めていないころに来ているはずだった。それがいまではうっとりするほどの美しいステップをふむ。彼女に涙の理由を詳しくは聞いていないから、私には理由のふかいところはわからない。
けれど、ブエノスでのはじめてのミロンガ、一番印象に残っているのは、フロアの真ん中で、彼女がふいに立ちつくしたときの、あの瞬間。
いま思い返してみれば、かなり大胆だと思う。女性同士でバルドッサだけで踊り、とつぜん止まって、10秒くらい止まって、それからリードを交代して、今度はヘタなリード(私よ)で、相手は泣きながら踊るという。
なにかがやはりおかしかった。
ブエノスアイレスの大地から、あやしいガスが少しずつ、ぷしゅーって、放出されているような、それに包まれて、無意識のうちにそれを少しずつ吸いこんでいるような、そんなかんじ。
深夜2時をまわったころに帰ったのだったか。時間の記憶もない。
翌日からシルビアのレッスンが始まる。ブエノスでのはじめての夜。どんなふうに眠りに落ちたのかも、記憶にない。
*写真を撮るなんてことできない精神状態だった。これはほぼずっとそう。だからこの日の写真もない。ネットからもらっちゃった、あの日のふんいきに一番近い「VIVA LA PEPA」の写真。
***
*写真:ホテルを出てすぐの歩道。
翌朝は11時にホテルのロビーに集合し、徒歩でスタジオに向かった。
それからも何度か歩いてスタジオまで行ったけれど、途中の景色をほとんど覚えていないのは、足元ばかり見ていたから。犬のフンがほんとうに多くて、それを踏まないように歩くのが、まるで無理やり「踏まないゲーム」をさせられているみたいで、腹立たしい。
パリも犬のフンが有名。さすが南米のパリ、って呼ばれるだけのことはあるわねっ。と胸のうちで悪態をつく。3日目くらいには、犬を見ると睨むほどになってしまった、この狭量さ。ごめんね、犬。
景色の記憶がないのは犬のせいだけではない。
はじめての街を歩いていても、1日目もそうだったけれど、ほどんどなんの感動もないことに私は失望していた。ブエノスのエセイサ空港に降り立ったときから感じていたことだ。
以前ははじめての異国の地を訪れれば、それだけで、わあ、と心が沸き立ったものだった。これって感度が鈍っているということなのかな、こうしてだんだん、以前は感動したものに感動しなくなってゆくのかな、精神の老化、ってこういうことなのかな。
そういうことに失望していたのだ。しかも、私にとっては、20代のころのパリと同じくらい特別な50代のブエノスアイレスだっていうのに。
途中、ベーカリーに立ち寄り、簡単な食事。ほとんどおなかに入らない。お友だちからのサンドイッチをひとくちだけ。
そしてレッスン場へ。
先生がチャイムを押して、白くて重い扉を開けて、階段を上る。受け付けのところの赤いソファに座って、タンゴシューズに履き替えているところに、シルビアがあらわれた。
シルビア・トスカーノ。
私、アーティストを呼ぶときは敬称をつけない。つけないことが敬称。これはほかのところでも書いているけれど、ピカソさんとか、マリリン・モンローさんとかシャネルさん、とは言わないでしょう。だから9/15朝日新聞、鷲田清一さんの「折々のことば」で作家・山口路子の……って表現されたときは嬉しかった。
そしてシルビア・トスカーノのレッスンが始まった。私はここで最初の、強烈な電流を流される。
(2018.10.17)