●美術エッセイ『彼女だけの名画』8:パリ、「レースを編む女」
2024/01/12
恋人を、どんなに好きでいようとも、ひとりになりたい時間がある。
みな「私たちは仲がいい」と思っていたいから、ひとりになりたい理由のなかに「なんとなく嫌だ」とか「うっとうしい」という要素を入れない。
その理由をいつも曖昧にしておく。ときにはそれに、いやらしい、もっともらしい色づけまでして。
私の場合、ふたりで出かけているのに、つまり、いま、このときはふたりで過ごそうと決めているのに急にひとりになりたくなる理由は単純で、彼の態度にかちんときたとき。冷静に考えれば些細なこと。喧嘩するまでもないから、物理的にすこし離れることにしている。
去年、ふたりでルーヴル美術館を訪れたときも私はとちゅうでかちんときて、待ち合わせの場所だけ決めて別行動をした。
たしか一緒に観ていた絵について彼が言ったことが気に入らなかったのだと思う。
すこし苛ついていた。
穏やかな絵が観たかった。
私は彼が向かった方角と反対に歩き始めた。目的はフランドル絵画の展示室。
フェルメールのあの一枚が頭に浮かんだ。
ひとりの女性がレースを編んでいる。
彼女は手もとに神経を集中させ、ただ、そのことだけが彼女のすべてかのように、その表情はあまりにも一生懸命で、それでいて穏やかだった。
そして、この女性を描いた画家の想い。
それは恋愛なのか家族的愛情なのか、わからなかったけれど、とにかくちいさな画面いっぱいに「やさしさ」が、そう、「やさしさ」という言葉以外では言い表せない、ふんわりとしたやわらかな光があふれていた。
なんてやさしい画家のまなざしなのだろう。
私はすこし泣いてしまった。
そのとき隣に人が立った。
一瞬、恋人かと思ったけれどそれは違って、見知らぬ白髪の長身の白人男性だった。
彼は外人特有の大ぶりのしぐさで、私の顔を覗きこんだ。
照れくさくて、泣き笑いをした私にその男性はフランス語で言った。
「この絵はすばらしい。愛がある。すばらしい」
そしてここからは乏しい語学力のため、ほとんど推測だけれど、「あなたと私は同じものに感動している。だからあなたの涙がわかる」と彼は言った。
真剣かつ優しきそのまなざしに私は頷いた。
彼は私の頭のてっぺんを優しく撫でて、そして背中をぽんと叩いて去っていった。
一瞬だけれど、ふわっと「理解された感覚」につつまれた。
うまくは言えない。
けれど彼はたぶん私と同じ部分でこの絵に感動していて、だからこそ私の涙がわかったのだ。私がこの絵に何を感じているのか、理解したのだ。
感覚を言葉にする、というもどかしさ。
そして、そのもどかしさと闘いつつも伝えられない、たくさんのこと。伝わらない多くの人々。
私のいちばんの理解者であるはずの恋人にでさえ、わかってもらえないことがある。
それはしかたがない。
ひとは、ひとりの人間にすべてを求めてはならないのだ。
だから、ときどき白髪の彼のような理解者が私の人生にあらわれる。
そして私の心を満たし、去ってゆく。
「レースを編む女」。
すばらしい作品がもたらした出会い。
ひとりの時間も悪くない。
私は穏やかな気持ちでフランドル絵画を堪能し、ゆっくりと恋人との待ち合わせの場所へと向かった。
***
「彼女だけの名画」第8回。パリ、「レースを編む女」
絵画:フェルメール「レースを編む女」
1996年「FRaU」の原稿に加筆修正したものです。