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◆小説「タンゴ、カタルシス」7:ロカ……狂女の痴性

2020/08/25

 

 

7:ロカ……狂女の痴性

◆七月×日

 今夜も上階の住人の物音がひどい。大勢の人がいるようで、異様に騒々しい。でももう平気。ここにいるのも、あと少しだもの。

 ここ一週間、部屋の整理に忙殺されていて、日記が書けなかった。アナイスの原稿だけで精一杯。埃と過去にまみれながらの創作はきつい。無理やり創作世界に入りこまなければならず、そのときにかなり精神を消耗するらしい。消耗はすぐにわかる。食欲の著しい減退。

 大方の整理が終わり、段ボールに囲まれながらだが、久しぶりに落ち着いた気分で、ワインを飲んでいる。もちろんアルゼンチンのマルベック。

 タンゴハウス軽井沢でのことを思い起こしている。

 レッスンが終わりミロンガが始まるまでの時間、アンナとのおしゃべり。

 アンナはくすんだピンクのシフォンのワンピース、タンゴシューズも同色で、またしても見惚れてしまう。エル・プンタソ、ちょっとした刺し傷のことを話した。

「フリーダ・カーロ、私も大好きなの。メキシコのコヨアカン、彼女の青い家を訪れたときにはね、暮らしていたフリーダの息遣いが聞こえてくるようだったわ、彼女の痛みまでもね、伝わってくるようで、この家はまだ生きているのね、そう感じたことを思い出すわ」

「青い家、私も行きたいと思っています」

「行きたいと思ったら、行ったらいいのよ。そしてエル・プンタソをそう解釈してそう踊りたい、と思ったら、そう踊ればいいの。サヨコさんの踊りたいように踊ればいい、私はそう思うの」

「アンナは? あの曲にどんなイメージを?」

 ここでアンナはいつものすこし首を傾げて斜め下に視線を落として、私が大好きな、言葉を探す表情をした。ひとが何かを考えている、言葉を探しているときの様子、私にははっきりとした好みがある。視線を上に泳がすのも俯いて眉間にシワを寄せるのも好きではない。アンナのあれが好き。

「私は、ナイフを思うかな」

 アンナは歌うように言って微笑んだ。

「ナイフ? 一本? 二本?」

「三本のナイフ。私はあの曲を聴くといつでも、三人の人間がそこにいるように思うの。複雑な感情を抱えた……自分を持て余している三人のひとたちね」

「傷つけ合うということ?」

「ううん、そういうことではなくて。どちらかと言うと、自衛のためにそれぞれのナイフをもっていて、でも、ときにそれが相手に傷を追わせてしまうこともある、というそんなイメージかしらね」

「自衛のナイフ……」

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