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◆小説「タンゴ、カタルシス」8:究極の愛のタンゴ

2020/09/08

 

8:究極の愛のタンゴ

■八月×日

 体力がほしい。ハイシーズンの軽井沢、覚悟してね、とアンナに言われていたけれどここまでとは思わなかった。

 夜に原稿を書けばいいなんて甘かった。そんな体力はどこをどう探しても私にはなかった。

 平日は朝から夕刻まで、カフェの手伝い。そして夕刻から夜まではタンゴのレッスン。ほぼ毎日アンナが見てくれた。時間は短かったけれど、アンナが部屋に戻ったあとも、私はなにかに憑かれたようにひとり体を動かした。東京の部屋でひとりレッスンしたときの虚しさはなかった。アンナの余韻があるからか、いや、やはりアンナとショウのロカ、あれが私を強烈に刺激している。

 そして週末のミロンガ。あいかわらず踊らないけれど、まさにタンゴ漬けの日々で、アナイス・ニンから離れてしまっている。

 いつもそうだ。私はふたりのひとを同時に愛することはできない。いまはタンゴに夢中でアナイスが薄まってしまっている。けれど軽井沢はひと月という期限つき、ということで自分を納得させる。いまは思いきり没頭してしまえ。こんなにしたいことがあるということを当然だと思うな。希少なことなのだ。人生の奇跡なのだ。仕事はなんとかなる。そのくらいのバイタリティはあるはず、と信じて、いまを生きればいい。

 

 土曜日のことを書いておきたい。記憶が薄まらないうちに。

 カリヤ君はレッスン時から、ショウはミロンガが始まる前に姿を現した。カリヤ君がいるとアンナはひときわ輝く、瞳が、少女漫画のようにきらきらとしているのがよくわかる。

 フロアはいつもと似た光景が繰り広げられていた。アンナは、もういつでも誰とでも踊れるわよ、って言ってくれていたけれど、あのフロアのなかに入りたいとは思わなかった。誘われて断るのが億劫なので、カウンターのなかに入り、赤ワインを少しずつ、酔わない程度に飲みながら、カウンター越しにドリンクのサーヴをしていた。

 料理は出さない。これはアンナの好み。「料理の匂いがするミロンガって私、好きじゃないのよ。何か口に入ったまま踊ったり、手がベタついたり、そういうのが嫌なの」。私も同意見。だから私がすることといえば、カウンターに来たお客さんにドリンクを出すことくらいだった。赤ワイン、アルゼンチンのマルベックを飲むひとが多かった。

 私はフロアを眺めて、音楽を聴き、好みのものはアイフォンのアプリSHAZAMで調べてダウンロードし、私なりにミロンガを楽しんでいた。

 

「サヨコさんはプグリエーセがお好きですね」

 低い声に顔をあげるとカウンターの向こう側にショウがいた。あの香りとともに。ほんとうに魅惑的な香り。くらりとする。

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