絶筆美術館

★絶筆美術館4:モディリアーニ『自画像』

2025/11/18

 

 

 自画像を描かない画家の絶筆は『自画像』だった。

 胸がぎゅっとなるほどに弱くて薄い自画像だった。

 

 この自画像は私に三十年も前の祖父の葬儀、遺影を思い出させる。

 祖父は八十一歳で亡くなった。なるべく最近の写真を使おうということになって、数か月前のなにかのお祝いの席での写真が使われた。とてもにこやかな笑顔だったが、かなしいほどに弱々しくて薄かった。 

 写真がピンボケだったとかそういうわけではない。くっきりと映っていた。なのに、弱い。薄い。それはもう存在が、としか言いようがなかった。半分魂がいってしまっているような。

 伯母が「もうこのときには死を知っていたのかもしれないね」と誰に言うともなしにつぶやいた。

 祖父は写真を撮ってからのちに突然倒れたのだから、知っていたのかどうか、それはわからないけれど、モディリアーニは死を予感していた。

 

 厳密には、最後の未完の作品はほかにある。イーゼルに残されていた友人の肖像画だ。けれど、私は『自画像』をモディリアーニの芸術的絶筆と見る。

 彼はこれが最後になるかもしれない、いやきっとそうなるだろう、と覚悟して描いた。

 問題は、なぜそのとき、最後の作品に、はじめての自画像を描いたのか、ということだ。

 私は絵画の世界に興味をもち始めた二十五年くらい前からずっとモディリアーニのファンで、彼の破滅的な人生に異様なまでに引き寄せられ、後追い自殺をした恋人ジャンヌ・エビュテルヌの悲劇に心を大きく動かされてきた。

 あとになって、私が夢中になった物語には後世のひとたちによる悲劇の脚色がずいぶんとなされていたようだと知ったけれど、それでも基本的な事実は変わらない。

 モディリアーニは三十五歳で病死、ジャンヌはその二日後にアパルトマンから身を投げた。妊娠八か月だった。二歳の娘が残された。脚色なし、事実だけでもじゅうぶんに悲劇的だ。

 とにかく私の興味はジャンヌとの関係に集中し、絶筆について深く考えるということはしてこなかった。

 

 人生がめぐり、私のなかでもさまざまな変化があり、そしていま、絶筆をテーマにして好きな画家たちを眺めたとき、モディリアーニの絶筆は自画像だった、という事実を前に、私は愕然とした。

 え、なぜ、そんなに大切なことを素通りしてきたのだろう。

 大好きな画家の自画像だ、知らないはずはない。けれど私は、ただ眺めていただけで、見つめてはいなかった。

 そう、見つめてはいなかったのだ。だから、見えなかった。

 あらためて、絵を見つめる。古い画集の絵を、見つめる。

 画家の、知っている限りの人生を思い浮かべて、そして人生の最後、キャンバスに向かう画家に寄り添う。できるだけ深く寄り添う。

 そして私は見たのだ。いや、画家の想いを見たように、思った。

 涙が出てきた。そこで見たものは私のモディリアーニへの愛をさらに募らせた。

 

 唯一の自画像が絶筆。

 

 彼は自分を描くことをしなかった。興味がなかった。自分を芸術表現の対象にしたくなかった数少ない芸術家の一人だ。

 肖像画家としてはひじょうに優れていた。モデルの内面をも暴き出してしまう、そういう肖像画を描くと評判だった。また、周囲にはキスリングやスーティンといった画家仲間がいて、彼らも肖像画を得意としていた。

 しかしモディリアーニを描いたものはない。描かせなかったのだ。

 そう考えると、この自画像の重要さが、おそろしいほどに際立つ。

 ブルーグレーのマフラーを巻いて、茶の、これはいつものコーデュロイの上着なのか、それを着て右手にパレット、左手に絵筆。おそらく凍るように寒い部屋でときどき激しく咳き込みながら、不吉な血を吐きながら、自分自身を描いた画家の胸中にあったものは、いったいどんな想いだったのか。

 こけた頬が痛々しい。目を細めて、いったいその視線の先には何があるのか、ひどく穏やかだ。力がない、とも見える。

 すぐれた肖像画家として、モデル本人も気づいていない性質まで描き出したという画家が、その天才的な視線を自分自身に向けたとき、何を見たのか。しかも死をほとんど覚悟していたという状況で。

 胸がえぐられるようだ。

 

■呪われた芸術家

 モディリアーニは一九二〇年の真冬に三十五歳で死んだ。結核性髄膜炎だった。医者の誤診による死だったから、運が悪かったとしか言いようがない。

 しかし、それでもモディリアーニはそのような運命を、どこかで歓迎していたようなところもあった。

 イタリアの良家の生まれだった。その育ちのよさからくる、隠しようのない品は、パリ、芸術家たちが集ったモンパルナスでも評判だった。映画俳優もかなわない美貌も兼ね備えていた。

 茶色のコーデュロイの服、鮮やかな色のスカーフ、つばの広い帽子。他の人がしたらなんてことない格好だが、モディリアーニはとにかく目立った。彼にはファッションセンスがあった。どんなにみすぼらしい服でも彼が着るとさまになった。

 圧倒的な美貌、育ちの良さを感じさせる気品ある振る舞い、洒落たスタイル、まさに彼は「モンパルナスの貴公子」と呼ばれるにふさわしかった。

 そして時代の流行は、「酒に麻薬に女に溺れる破滅的人生」だった。

 だからモディリアーニもその路線を目指した。もともと身体が弱く、とくに肺を病んでいたから自分は長生きできないだろうという予感もあった。それに彼はヨーロッパでは冷遇されているユダヤ人だったから「破滅的人生を送る呪われた芸術家」はひじょうに彼に合っていた。

 仲間は彼を「モディ」と呼んだが、これはフランス語で「呪われた」という意味があった。綴りはmaudit、モディと発音する。彼はこの呼び方を気に入っていた。

 彼は自分で自分のイメージを創っていた。

 これは芸術家であれば珍しいことではない。多かれ少なかれ、彼らは自己演出に熱心で、創作活動の一環と考える者もいる。

 とにかく、モディリアーニが、パリのモンパルナス界隈で酔いつぶれて暴れるのも、麻薬(ハッシシ)に手を出すのも、すべて意識して行っていたことで、自分をコントロールできていた。だから、仲良しのユトリロのようにアルコール中毒で入院することもなければ、ジャン・コクトーのようにアヘン中毒で入院することもなかった。

 ピカソは、さすがの眼力でこのことを見抜いていた。

「モディが酔っ払ってふらふらするのはモンパルナスのカフェの付近と決まっている」と。

 仲間の視線がないところでは、いかにも酔いどれているという姿を見せないということだ。

 モディリアーニはどんなに酔っても、どんなに苦しくっても、身体の真ん中はいつも覚醒していた、そういう人だったと思う。

 

■妻としてミューズとしての、強烈なジャンヌ・エビュテルヌ

 

「老若を問わず、女という女はみな例外なく彼に夢中になった」、「彼にじっと見つめられるとみな理性を失った」などという証言からすると女性関係は激しそうに思えるのだが、そうでもなくて、生涯で重要な女性、ミューズは二人とみていい。

 一人目がベアトリス・ヘイスティングスという名のイギリス人で、彼女とは三十歳のときに出逢っている。彼女は五歳年上のジャーナリスト、才気煥発、エキセントリックで時代の先端を行くエネルギッシュな女性だった。二人は同棲し、刺激的な日々を送る。

 刺激的すぎたかもしれない。喧嘩になると、かなり激しく、物を投げたり殴り合いになったりすることは珍しくなかった。

 ふたりは二年で別れるが、知的で鋭い観察眼をもった彼女がモディリアーニの芸術に与えた影響はとても大きかった。

 ジャンヌ・エビュテルヌと出逢ったのはベアトリスと別れたあとのこと。一九一六年、モディリアーニ三十二歳、ジャンヌは十八歳、画学生だった。

 出逢ったとき、ふたりに残されていた時間はおよそ三年。ふたりはそのことをまるで知っていたかのように、じつに濃密な日々を送る。

 

 ジャンヌとの日々を追うことは、そのままモディリアーニの晩年を追うことになるので、もっとも興味深いところだし、絶筆の自画像にも深く関係している、と私は考える。

 とあるデッサン教室でふたりは出逢った。

 ジャンヌは画家を志し、堅実な生活を強要する家族からの自立を願い、そのきっかけを与えてくれる人を求めていた。そしてモディリアーニと激しい恋におちた。ふたりは家族の反対を押し切って同棲を始める。

 出逢いからおよそ二年後、モディリアーニとジャンヌは南フランスのニースに移住する。

 これは友人であり画商のズボロフスキーの提案で、モディリアーニの咳がひどくなっていたこと、ジャンヌの妊娠などの理由で、暖かなところに転地させるのがよいだろうと思ったのだ。仲良しの画家スーティンと藤田嗣治(フジタ)も同行した。

 ニースで女の子が生まれたのは十一月二十九日。モディリアーニ、三十四歳、ジャンヌ二十歳。

 出産はしたものの子どもは乳母に任せきりだった。彼女の関心は子どもよりもモディリアーニと自分自身の芸術に集中していた。

 一年ほどニースで過ごしたがモディリアーニの希望でパリに戻る。彼は自然よりも都会の喧騒のなかで安らげるタイプだった。

 ジャンヌは二人目を妊娠していた。

 モディリアーニはジャンヌと結婚を約束していたけれど、祖国イタリアの書類関係の煩わしさからか、正式な入籍をしていなくて、結局入籍しないまま亡くなってしまうことになるのだが、「結婚誓約書」は作成していて、周囲の人たちはジャンヌを「妻」と認識していた。今でいう事実婚みたいなかんじだったのだろう。

 ところで、私はジャンヌが描いた絵が好きだ。モディリアーニの影響を受けている絵も多くあるけれど、なにかとても力強い自我が、ある。

 私がなかでも好きなのが、モディリアーニとジャンヌの共作、『モディリアーニとジャンヌ・エビュテルヌ』というタイトルの絵で、ニースで暮らしていたころの、紙に鉛筆で描かれたデッサン、葡萄の木を背景にベンチに座ったふたりは手をつないでいて、身体を寄せ合っているから、ふたりの腕は重なって交差していて、親密さが溢れている。離れようのないふたりの姿がそこにある。

 見ていると、のちにジャンヌの両親が言ったという「その愛は本当に死よりも強いものだった」という言葉が、胸にしみてくる。

 

■涙と希望の間で

 夏にはロンドンでの美術展に出品した絵が高額で売れ、画家としての未来が開けてきていた。

 友人たちの思い出話から、この時期のモディリアーニについて、二つの姿が浮かび上がってくる。

 一つは、自分の病気は重いことを自覚しつつも養生せずに自暴自棄となり、アルコールを浴びるように飲みながらカフェからカフェへとさまよっている姿。

 あるとき彼は近づいている死が悲しくて、モンマルトルの丘をのぼった。

 ユトリロの母で画家でもあるシュザンヌ・ヴァラドンを訪ねたのだ。

 モディリアーニは「彼女は僕に耐えられる唯一の女性だ」とヴァラドンのことを慕っていた。ヴァラドンはモディリアーニの弱さを受け入れていたからだ。おそらく彼女だけにはポーズをせずにありのままをさらけ出すことができた。その夜もヴァラドンの前でモディリアーニは泣いた。

 もう一つの姿は、多くの重病人と同じように、そのうち回復して再び元気になるだろうという根拠のない希望をもっている姿だ。

 春になったらフランスを去って故郷のイタリアに戻ると語っていた。二人目の子どもも生まれることだし、家族でイタリアに永住しようと考えていた。

 

 しかし、一九一九年の秋から、目に見えてモディリアーニの体調は悪化していた。

 友人たちとジャンヌは医者に行くようにモディリアーニを説得したが、彼は医者嫌いだった。そして病気のことを話すことも嫌がった。真実と向かい合うのが怖かったのかもしれない。

 このころのジャンヌの絵でひどく気になる絵もある。日付が入っていないから、はっきりといつ描かれたのかわからなくてもどかしいのだが、『自殺』というタイトルの水彩画だ。そこではジャンヌ自身がベッドに横になり、血のついたナイフを右手に、そして左手で血が噴き出す胸を押さえている。同じテイストで『死』というタイトルのものもあり、そこではジャンヌと思われる女性がベッドいるが、表情は描かれていない。

 モディリアーニの死を予感して描いた絵だろう。ジャンヌの決意が伝わってくる。彼女はモディリアーニが死んだらそのとき自分も死ぬと決意していたのだ。

 

 そして、モディリアーニはそのことを、きっと知っていた。

 子どもの世話よりもモディリアーニに寄り添い自分の芸術に身を捧げることを選ぶような女性だ。激情にかられる、そういう性質は充分にあったはずだ。

 ふたりの間でそんな会話もあったことだろう。あなたが死んだら私も死ぬ。いや、それはいけない、といった会話が。

 モディリアーニの絶筆は、秋から冬の、そんななかで描かれたのだ。

 

 季節が移り、冬になった。その年の冬は異常なほどに寒く、十二月になるとモディリアーニの病状は悪化した。血痰を吐き、瘦せていった。しかし、仕事は続けていた。鉛筆を手からはなさず、たえずデッサンをしていた。

 年が明けてすぐのころ、カフェで旧友に偶然会ったモディリアーニは「僕はもうだめなんだってことを知っている」と言った。

 また同じころのある朝、早起きをして一歳になったばかりの娘を訪ねた。彼女はパリの郊外の友人宅に預けられていた。娘に会えた彼はとても嬉しそうに帰宅した。

 同じころ、仲良しのモーリス・ユトリロと楽しい夜を過ごした。ふたりはぐでんぐでんに酔っぱらった。この夜がユトリロとの最後の夜になった。

 一月十四日、強い腎臓の痛みで、ついに医者に行った。腎炎だと診断された。誤診だった。モディリアーニは血を吐いていた。しかし医者は血を吐かなくなるまで待ってから入院したほうがいい、と言った。 

 彼は自宅でひたすらに衰弱していった。二日後に救急車が到着したとき、意識はすでになかった。

 二日後の一月二十四日、午後八時五十分、モディリアーニは死んだ。結核性髄膜炎を長い間患っていたのだが、医者はわからなかったのだ。

 

■モディリアーニと、彼のひとり娘

 

『自画像』を見る。

 見れば見るほどに、いたいたしいほどに、力がない、弱々しい。けれどとても胸うたれる。

 ここにいるのは「呪われた芸術家」でも「モンパルナスの貴公子」でもない。

 モデルの性格までもを描ききったと、ある意味おそれられていた画家がその視線を自分自身に向けたとき、彼はそこにいったい何を見たのか。何を描こうとしたのか。何を遺そうとしたのか。いったい誰に向かって描いたのか。モディリアーニ独特の塗りつぶされた瞳は、いったい誰を見ているのか。この絵はいったい誰に向けて描かれたのか。

 そんなことを考えたとき私は、モディリアーニのこの世にたったひとりだけ残された一人娘のことを思う。当時二歳になったばかりのジャンヌ・モディリアーニのことを。

 そうだ、モディリアーニには愛する娘がいた。死を意識したとき、小さな娘のことを考えなかったわけがない。

 モディリアーニのイメージとはずいぶん違うけれど、彼にとって子どもの存在は大きかった。

 ジャンヌがニースの産院に入院したとき、知人とともに子どもの誕生のニュースを待ったが、落ち着かなく、五体満足の子が無事に生まれてくるかどうか、ジャンヌが子どもを育てることができるかどうかとても不安だ、なんてことを言いながらそわそわしていた。

 女の子が生まれたという知らせには大喜びではしゃぎまわり、母親の名をとってジャンヌと名づけ、「ジョヴァンナ」と呼んだ。これはジャンヌのイタリア語名だった。

 イタリアの母への手紙にも、つねに「赤ちゃんはすごく元気」などとふれているし、画商ズボロフスキーへの手紙には「娘はすくすく育っている。僕にとって、彼女は何よりも慰めになり、期待はふくらむばかりだ」なんて書いている。

 妻ジャンヌが子育てができないため、娘がパリの友人宅に預けられているとき、酔うと決まって娘の顔を見るために、真夜中でも友人宅のベルを鳴らした。

 死の直前に出した母への手紙には「写真を一枚送ります。赤ちゃんの写真がないのが残念です。彼女は乳母と一緒に田舎にいます。春になったらイタリアに旅行したいと思います……」とある。二人目が生まれたら家族四人でイタリアへ行くつもりだった。

 また、これはジャンヌと娘ではなく、他の人がモデルではあるが、この時期モディリアーニとしてははじめて『母と子』というタイトルの、母子をテーマにした作品を描いている。

 

 子煩悩な父、だなんて「呪われた画家」のイメージには程遠いけれど、そしておそらくモディリアーニ自身、自分のイメージには合わないと自覚しつつも、彼の子どもに対する想いは強いものがあった。

 そして病状が悪化し、死を意識したとき、妻ジャンヌの死までも予測して、残される娘のことを思ったのではないか。

 この唯一の『自画像』は、父が娘に遺した父の姿ではなかったか。

 母ジャンヌの姿は何枚も肖像画を描いているけれど父の、自分自身の肖像はない。また画家仲間たちによる肖像画もない。

 だからモディリアーニは今までに描いたことのない自画像を遺そうと思った。

 

 こんなふうに考えるのは感傷的すぎるだろうか。

 けれど、そう考えると、私は、この自画像に、モディリアーニの美学を見るように思えるのだ。

 モディリアーニは、ここに自分自身しか知りえない、真の姿を描いた。

 

■モディリアーニの声を想像する

 

 呪われた芸術家なんかじゃない、モンパルナスの貴公子なんかでもない、自分は、そうシュザンヌ・ヴァラドンの前でだけさらけ出せた自分自身という人間は、じつに弱き人間だった。病気のことを知るのが怖くて避けていたし、妻ジャンヌを心配させたくなかったがいつも酔いどれていた。

 しかし、僕は自らの美学に反することはしなかったよ。金で芸術を売るなんてことは一度もしなかった。気に入らない絵にはサインを入れなかったし、いつだったか、カフェでアメリカ人のデッサンをしたとき、サインがあったほうが高く売れるからサインをいれろと言われたから、デッサンのど真ん中に、そう、顔を横切る大きなサインを入れてやったこともあったよ。 

 ほんとうは彫刻がやりたかったけど、肺が悪かったし、金もかかるから彫刻の道は諦めた。それでも絵が描けているときは満たされていたよ。

 そして君が生まれたときも有頂天になった。イタリアで、家族みんなで過ごしたかった。でもどうやら無理そうなんだ。そしてもしかしたら君はひとりきりになってしまうかもしれない。そうならないことを願うが、もしそうなってしまっても、どうか、父と母から愛されなかったなどとは思わないでほしい。すべては、それぞれの愛ゆえなのだと信じてほしい。

 きみのために僕は最初で最後の自画像を描こう。演技することもイメージづくりすることもしないで、ありのままの、きみの父の姿を描こう。

 父の自画像を、愛する娘に捧げる。

 

■ひとり娘が書いた「伝説なしのモディリアーニ」

 

 やはり感傷的にすぎるだろうか。そうだろうか。

 

 遺された一人娘ジャンヌ・モディリアーニは、イタリアのモディリアーニ家で育てられ成長して美術史家となった。

 ドイツ表現主義、エコール・ド・パリの画家たち、ゴッホの研究などをしていたが、やがて伝説にまみれた画家モディリアーニの真実を記すために『モディリアーニ 人と神話』を書いた。

 この本は、伝説にまみれたモディリアーニの真実を描いた伝記の決定版として高く評価された。

 なにしろ原題は『伝説なしのモディリアーニ』。その意図がはっきりとしている。一九五九年のことだ。両親が死んでから三十九年、あのときの一人娘は四十一歳になっていた。

 父と母のことを書くのではない。美術史家としてふたりの芸術家について書くのだ、ということを意識しすぎではないかと思うほど、ひじょうに客観的かつ冷静なまなざしがある。

 そんななか、ときどき、ほっとする記述にも出会う。

「モディリアーニはいじらしいほど妻と赤ん坊を誇りにしていたが、同時にまたこの新しい責任を恐れていたように思われる」

 愛情がないわけがない。父に対する、そして母に対する愛情を胸いっぱいに抱きながらも、冷静に一人の芸術家の真実を書こうとした、彼女のその姿勢にまず私は敬意を表する。そして、そこまで到達するまでには大変な精神の葛藤があっただろうと想像し、私は読みながら何度も何度も胸が熱くなった。

 本には『自画像』についてふれている記述は見つからなかった。

 

 

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モディリアーニ参考文献

「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」 ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳(西村書店)2007年

「アメデオ・モディリアーニ」キャロル・マン著 田中久和訳(PARCO出版)1987年

「モディリアニ 人と神話」ジャンヌ・モディリアニ著 矢内原伊作訳(みすず書房)1961年

「モディリアーニと妻ジャンヌの物語展」カタログ(東京新聞)2007年

「モディリアーニ展」カタログ(毎日新聞社)1992年

「モディリアーニ モンパルナスの伝説」 宮下規久朗著(小学館)2008年

「芸術新潮 特集モディリアーニの恋人2007年5月号」2007年

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