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◆小説「タンゴ、カタルシス」10:四人のミロンガとウナ・ノーチェ・マス

 

 

10:四人のミロンガとウナ・ノーチェ・マス

◆九月×日

 カリヤ君との会話を忘れないうちに。

 土曜日、カリヤ君は珍しく早めに到着したから、午後レッスンが始まるまでの間、おしゃべりできた。カリヤ君は私を見るなり言った。
「やっぱり!」
 続きを無言で待つ私にカリヤ君は目を輝かせて言った。
「黒い百合だ」
 カリヤ君はカバンもおかずに続けた。
「サヨコさんの花を考えていたんだよ。いくつか迷っていたけど、黒い百合だな、と。そしていま決定、やっぱり黒い百合だ」
 黒い百合、ってぞくぞくするよなあ。そう言いながら奥の部屋に行こうとするカリヤ君の背中に訊ねた。
「アンナは?」
「疑いようもなく」
「真紅の薔薇」
「その通り」
 カリヤ君はウインクをして、アンナー、と歌うように言いながら奥の部屋へ消えたのに、すぐに戻ってきて、「アンナ、ちょっと休憩、だって」と言ってテーブルに座った。
「ちょっと休憩、増えてるのよ」
「うん」
 沈黙。
 この話はおしまいにしたい、とカリヤ君から伝わってくるから別の話題にする。

 タンゴのことをすこしでも知りたくて、私はタンゴの歴史について、勉強していた。アルゼンチンの歴史についても。けれど知れば知るほどに、私にとってのタンゴ、いつものように個人的な関わりにしたいから、多くの歴史上の自分と同じように「私のアナイス」とか「私のマリリン」とかと同じように、「私のタンゴ」と呼ぶが、私のタンゴが、なにか別物のように思えてくる。

 そのことを話すと、カリヤ君は言った。
「似てるなあ、俺もタンゴに出合ってすぐにそれをやって、そうなった」
「恋と同じで、私は好きになった対象を知りたくてたまらなくなってしまうのよ、そして知って幻滅することもあるし、もっと好きになることもあるのだけど」
「そうさ、恋と同じ。それがわりと本物めいていたら、少々嫌なところが見えても、好きは持続するし、嫌なものの正体を見極めようと、のめりこんだりする」
「ややこしいね」
「そのややこしさがくせになる。それで、サヨコさんはブエノスアイレスに行きたいと思っている」
「わかる?」
「わかるさ。でも行くとしたら短期間の旅行ではなくて、何年間か、あっちに住んでほしい。旅行程度じゃあ、あの街の複雑怪奇なところまではわからないだろうから」
「あなたは? ブエノスに住んでいたことがあるの? あるのよね?」
「三年ちょっと。スペイン語のためなのに、なぜかスペインではなくアルゼンチンになり、まあ、たまたまそうなったって、ここは面白い話じゃないから飛ばすけど、たまたま行くことになったブエノスアイレスでタンゴにやられてしまったというわけだ」
「ということは、ブエノスでタンゴを始めたの?」
「そ。動機は、聞かれる前に言うけど単純。好きな女の子がタンゴを踊っていたんだ。結局彼女とは戯れ程度で終わってしまったけど、タンゴは終わらなかった」
「タンゴは終わらなかった、っていいね」
「狙って言ってみた」
 カリヤ君は、ふざけたかんじのウインクをして、それから、笑った。

 私はカリヤ君の本を読んだことがなかったから、いくつかのタイトルを聞いてメモした。それから訊ねた。
「翻訳、好きなものを訳せている率はどのくらい?」
「四割かな。あ、四割って多いんだよ、おそらく。もっと小説を手がけたいけど、需要が減ってきているから。かといって、あんまりかけはなれたのもな、無理すると体に悪いからさ。あ、サヨコさんがいま何を聞きたいのかわかる。生活はどうしているの? だね? 答えは簡単、俺はいやらしいことに、株で稼ぐ才能があるようなんだな」

 すこしおどけて言ったカリヤ君の口もとに浮かんだ歪んだ微笑。文学を愛することと株で儲けることの間にある隔離、そこに横たわる苦痛。株で儲けることはけっして悪いことではないのに、カリヤ君の歪んだ微笑のわけが私にはわかる。自分を裏切っているのではないかという疑いから生じる痛み。

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