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◆小説「タンゴ、カタルシス」11:ブエノスアイレスの香り、マエストロの涙と笑顔

 

11:ブエノスアイレスの香水、マエストロの涙と笑顔

◆九月×日

 カリヤ君からプレゼントが届いた。

 あの日、四人のミロンガが終わりに近づいたころ、カリヤ君が言った。
「サヨコさんに、今夜の記念としてフエギアを贈りたいと思うんだけど、どのあたりがいいかな」
「サヨコさんは、アンソレンス、よね」とアンナ。
 香水のことを言われたのははじめてだったし、その通りだから驚いた。

 ゲランのアンソレンスを私は愛用していた。四十歳のころだったか、当時の恋人から「きみにぴったり」とプレゼントされてからずっとそれを使っていた。螺旋形の瓶のデザインも好きだった。残り少なくなってきてネットでオーダーしなければとは思っていたが、高額なので躊躇していたところだった。

「アンナはなんでもわかっちゃう」と言うと、「私も以前つけていたことがあるからよ」とアンナは笑って言った。
「あるひとからいただいたの。傲慢って名前のを私がつけたらどうなるか興味があるって言われてね」
 ああ。アンナと傲慢ほど遠い言葉はないだろう。それに比べて私は「きみにぴったり」と言われたのだ、この違い。
「でも、サヨコさんには少々甘すぎると僕は思う」とショウ。
 瞬間、シャワーを浴びてアンソレンスを消したくなった。でもすぐにカリヤ君から救いの手が。
「俺は似合うと思うけど」
 アンソレンス、傲慢で生意気なのはお前だショウ。と悪態をつきたくなる。嘘でもカリヤ君のようなことを言え。もうぜったいショウがいるときにはアンソレンスをつけない。子どもじみた反抗だってなんだってぜったいつけない。
 私が胸のうちでみっともなく悪態をついている間、三人はそれぞれ、私の知らない名前を次々とあげながら盛り上がり、ショウもいつになく自分の意見を主張し、結局ショウの最後の言葉にふたりが納得してそれが決定した、らしい。ショウは言ったのだ。
「僕は、いまのサヨコさんには甘さが秘められているものがいいと思う」

 

 フエギアという名を私は知らなかった。
 カリヤ君が教えてくれた。

「フエギアって、ブエノスアイレスの調香師が作ったフレグランス・メゾン。調香師のジュリアン・ベデルはまさに天才なんだ。それでものすごいロマンティストでどこかパンク。イベントでちょっと話したことがあるんだけど、限界まで自由って印象だったよ。それで、彼の美意識ときたら、香水の原料へのこだわりはもちろん、プロダクトのあらゆるところに表現されていて、でもねサヨコさん、俺が一番気に入っているのは、それぞれの香水がもつ物語なんだ。ブエノス発ということもあり、タンゴにまつわるものもあって、俺らは気に入っているんだ」

 謎が解けた。三人から漂っていた異国の香りはフエギアのものだったのだ。そしてそれを私にプレゼントしてくれると言う。
「いまみんなで決めたのはアンソレンスよりは甘くはないと思う。でも試してみて。それで気に入らなかったら、一緒に選びに行くということで。六本木まで行かないとだけど」
 カリヤ君の言葉に私はうなずいた。

 次に会ったときかと思っていたら違って、それは宅配便で届いた。アンナが「今週は、彼、来られないから」と教えてくれた。
 今週は来られない。東京の世田谷に住んでいることは聞いていた。私がここに滞在することに決めたとき、カリヤ君は言った。
「羨ましいよ」
「あなたも軽井沢に来たら? 翻訳の仕事ならこっちでもできるんじゃない?」
 軽く言った私にカリヤ君は瞳を曇らせて、それでも笑顔でひとこと。
「来られたらとっくに来てるよ、サヨコさん」
 その様子で私は自分が軽率なことを言ってしまったことを知った。何か事情があるのだ。結婚しているのかもしれない。それ以外の事情かもしれない。みな、それぞれに事情を抱えているのだ。それにしても、ほんとにカリヤ君の言う通りだ。来られるならとっくに来ている。自己嫌悪。それにしてもカリヤ君の事情とは何だろう。

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