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★西洋絵画のスーパーモデル:3「マリア」

2023/12/28

 

 

 

■どんなに年齢を重ねても失われないピュアな感覚。自分のなかの「マリア」に気づくとき■

 

 新年、ということで、今回は清々しく、聖処女マリア。

 マリアについては、誕生、少女時代、結婚、そして有名な「受胎告知」など様々なシーンがあるけれど、ここに紹介するのはムリーリョの描いた『無原罪の御宿り(むげんざいのおんやどり)』。

 マリアが描かれている絵画のなかでは私がいちばん好きなものだ。

 この絵をはじめて観たのは、スペインのマドリッドにある「プラド美術館」だった。
 ゴヤを観る目的で訪れたプラドで、マリアを描いた一枚の絵にここまで心奪われるなんて、私は想像もしていなかった。なぜなら私、じつは宗教画が苦手なのだ。

 だからそのときも、そのコーナーを足早に通りすぎようとしていた。が、一枚の絵の鮮やかな色彩(青があまりに美しかった)が目に飛びこんできて、私の足はぴたりと止まった。

 

 私は引き寄せられるようにその絵に近づき、そして息を飲んでそれを仰ぎ見た。

 美しい、という表現がまさにふさわしい。純潔の白衣に青いマント、無数の天使たちに囲まれた上弦の月に乗るマリア、その気高い表情……。

 無原罪の御宿り。

 キリストの教えでは、人はみな生まれながらに原罪を背負っている。けれど、マリアの母アンナは神の恩寵によって懐妊したので、マリアは原罪を免れている。だからキリストの母たるにふさわしい、という宗教観。

 こういったマリア信仰は古くからあったが、16〜17世紀のスペイン、とくに南部のアンダルシア地方で高揚し、以後その地は「いとも聖なるマリアの国土」と呼ばれるようになった。

 ムリーリョは、アンダルシア地方のセビリアで生涯を送った画家。『無原罪の御宿り』をテーマに30点ほど描いている。

 キリスト教を信じていなくても、無原罪の御宿りに懐疑的であっても、そして私のように宗教画が苦手なものにとっても、すべてをこえて、感動的な絵というものがある。

 おそらく、それが芸術というものなのだろう。

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 もうひとつ、この絵を観ていて思い出すことがある。

 あるとき、ちょっと気に入っている男性に「ムリーリョのマリアがいい」と言ったときのこと。

 彼は聞きたくないことを聞いた、というような目で私を見て、「似合わないよ、イメージ狂っちゃうからあんまり言わないほうがいいよ」と忠告したのだ。

 私は「そうかな」と流しつつも、ああ、このひととはダメだ、と心ひそかに確信していた。

 彼の言うこともわかるけれど、人間っていろんな要素がパッチワークみたいになってできているものだと思う。

 「危険な恋が好き」とか「安定は堕落」なんてことを言ってはみても、私だってこのマリアを見て、じーんと涙することもある。なぜかわからないけど、いいなあ、ってしみじみ思う。

 どんなに、きつい女性でも、ばりばりって音がするほど頑張っている女性でも、すごく生意気で可愛気のない(私のような)女でも、「このマリア、綺麗……ああ、いいなあ」的部分をもっているのではないだろうか。

 それは、姿をあらわすことは少ないけれど、誰もがこころの奥に抱えている柔らかくて脆い部分であり、どんなに年齢を重ねても失われることのないピュアな感覚、と私は信じている。

 そんな意味でも、この絵は新しい一年のはじまりにふさわしい。

 いろいろなことが待ち受けているだろうけど、とにかく、スタートくらいは、ピュアなこころで。

 濁りのない透明な空気に包まれている、このマリアのように。

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◆「マリア」伝説◆

 マリアの両親はヨアキムとアンナ。子どもができないことを嘆いたふたりが必死に神に祈った結果、産まれたのがマリア。

 成長したマリアは大工ヨセフと結婚するが、ある夜大天使ガブリエルが現れ、マリアにキリストを産むことを告げる(受胎告知)。

 中世後期の聖母崇拝の高まりのなかからマリアが幼な子イエスを抱く「聖母子像」は宗教画でもっとも愛されるテーマとなった。

 日本語化して久しい「マドンナ」は、イタリア語で聖母マリアを意味し、貴婦人に対する尊称にもなっている。

*絵のタイトル「無原罪の御宿り」

*画家:バルトロメ・エステバン・ムリーリョ(1618-1682)

 スペイン、セビリアに生まれる。10歳のころ孤児となる。政治的に混乱のスペインで、魂の救済を求める民衆の信仰心を巧みに図像化し、セビリアの大聖堂、修道院などに多くの作品を残した。

*1999年の記事です

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◆現在の感想

 ムリーリョのマリアが似合わない、と私に言ったひとが誰だったのか、まったく思い出せません。「ちょっと気に入っている男性」とあるのに、思い出せません。

 美しいものは美しい。好きなものは好き。そこに理由はないのに、醜い、嫌いには、そこらじゅうから理由がはいだしてくるみたいなところが私にはあるようです。

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