■『楽屋』と大河内直子のつよさ
きっと、いまこそ重い腰をあげていくべきなのだ、と昨夜思った。それでも彼女に連絡はできなかった。明日目覚めたときの自分の「気分」に自信がなかった。
力が入らない状態が続いているから、そんなときの自分が何をしでかすかわかりすぎるほどにわかっている。ベッドにもぐりこみ「ごめんなさい、やっぱりいけません」ってなっちゃう。
朝目覚めて、彼女からのメールを開いた。もう何度開いたことか。彼女がずっと前にお知らせとして送ってくださったものだ。そのメールにはようやくようやく、このときがきた、という彼女の想いと、それを観てほしいという(こんな私にだよ)彼女の優しい言葉があった。
そして、彼女の記事へのリンクがあった。彼女のコメントを何度も何度も読んだ。一部ご紹介。
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昨年の冬から続く長い長い夜の中、私を強く保たせたのは、清水邦夫さんの台詞だった。それは10代の頃から応援してくれている友人からの便りがきっかけだった。
「直子、今は生きたマネより死んだマネ」
「真情あふるる軽薄さ」の台詞だ。
1回目の緊急事態宣言の打撃をもれなく受けていた私は、この言葉が、友人の便りが、引き金となり再び清水さんの作品を貪り読んだ。
そして「楽屋」と再会。
「楽屋」には死せる者の魂と生きる者の魂が響き合っている。
「生きていきましょうよ。」
「楽屋」の中で蘇る三人姉妹の台詞に不思議な実感を覚えた。
今、「楽屋」に描かれる女優たちと一緒に一歩踏み出したいと思う。
この長い長い夜の中、愛する遠方にはきっちり目を向けて。
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そう、彼女って演出家の大河内直子さん。
ゼルダがヒロインの「ラスト・フラッパー」以来、ときおりお会いしておしゃべりしたり、彼女の舞台を観に出かけたりしてきた。けれど演劇はコロナ禍で、まともに打撃を受けた世界のひとつ、どんな日々をどんなふうに送っているのか想像し、きっと彼女ならこのときさえも自らの芸術のエネルギーとするのだろう、とは思っていた。けれど苦しくなかったはずはない。
だから、記事の直子さんのコメントには胸がぎゅっとなったし、お芝居そのものよりも(ごめんなさい)、直子さんがいま創ったものを目撃したかった。
なのに、こんなにへなちょこだから、一歩が踏み出せなくて、当日の予約となってしまった。
いま、帰宅してワインを飲みながらこれを書いている。
行ってよかった。すばらしい舞台だった。
清水邦夫による『楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~』を大河内直子が演出。
私は演劇、舞台というものに疎いので、そして『楽屋』のなかで扱われるチェーホフの「かもめ」も「三人姉妹」も詳しくないので、そして、女優さんたちについても同様なので、舞台から私が何を受け取ったか、くらいしか書けない。つたない感想。家に帰って誰かに「どうだった?」って聞かれて話すときみたいなかんじね。
まず、タイトルからして、響きました。
流れ去るものはやがてなつかしき。
ほんとに? ほんとうにそうならいいな、とせつに想う。波のように過去がおしよせてきたから、なおさらに思う。「流れ去るものはやがてなつかしき」。なんて優しい希望なんだろう。
そして舞台美術が、また、もう私の好みのど真ん中に命中。
パンフレットを見ると、戯曲のト書きにある「草の原に、墓標のように立つ、無数の鏡たち」が重要な条件だった、ってある。
そして、会場に入った瞬間に、もうそれがすぐに目に入ってきて、開演までの時間、私は舞台を凝視していたのだけど、ああ、これ、私が大好きなベルギーのサンボリズム(象徴主義)の画家フェルナン・クノップフの絵みたいだなあ、ってすでにもうその世界に引きこまれていた。
四人の女優たち。うち三人は出番がないけれど楽屋で化粧をしセリフの練習をしていて、なんだか私は自分が彼女たちの仲間になっているような感覚に。
これが形になるのかならないのかわからないけれど格闘している作品のことを思い浮かべたりしてね。
そして、彼女たちを見ていると、果たして真に重要なのは舞台に出て演じることなのか、約束はされていないけれど演じるために準備をし続けることなのか、わからなくなってくる。
これは私がたいせつにしているブラウニングの、
「人間の真価は、その人が死んだとき、なにを為したかで決るのではなく、彼が生きていたとき、なにを為そうとしたか――である」
と重なるような気がする。
劇中、はっと胸を突かれた言葉があって、前後はあやふやなんだけど、とにかくピンポイントで響いたそれは、「鏡のなかの戦士」。
違っているかもしれない、でもそんなふうに私は胸に刻んだ。この言葉を胸に鏡を見たなら、いま私は鏡に映った自分に何を思うのだろう。
ラストは「三人姉妹」のラスト(たぶん)。
「生きていきましょうよ」
そう、いまなぜこんなに苦しいのかわからないけど、とにかくいまを生きてゆこう、そして、なんとか耐えて生き抜いていったなら、なぜこのような苦しみがあったのか、きっとわかるときが来るんじゃないかな、来るといいな。とにかく生きてゆこうよ。
ここはこんな意味だったよね、って書いているだけ。いま書棚にチェーホフの「三人姉妹」がなぜか見つからないので。違っていたらごめんなさい。
なんだかね、このラストシーンがすさまじかった。舞台の女優たちの、尋常ならざる熱を感じた。狂的なくらい。
そして私の場合は直子さんラブだから、このシーンに直子さんが重なっちゃった。「長い長い夜」を生き抜いてきた直子さんが。
さらに、おめでたい私はまるで私へのメッセージにもうけとったりして、だから泣きました。
行ってよかった。ほんとに行ってよかった。ありがとう直子さん。華奢なからだの中心にあるあなたのつよさをたしかに見ました。
……どうしようかな。
ちょっとアルコールみたいなものがまわってきたことだし、勢いでアップしてしまおう。
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