■発見があれば
いろんな意味で刺激的な夜を過ごした終わりにお友だちからのメッセージ、「発見があれば生きてゆける」という一文に惹きつけられた。
探すのではない、発見するのだ。
というピカソの言葉が瞬時に重なったからだ。
「発見」は訳し方によって、あるいは、そのときのピカソの選んだ単語の問題なのか、「出会う」とか「見出す」とされていることもある。
けれどいま、私はピカソのことを私なりに知ろうとするなかで、「発見」、これが一番しっくりきている。
探すというのは、あらかじめ目的(それは明確であったりぼんやりしていたりさまざまだけど)があり、それを求めて行動すること。
発見は違う。いままで知らなかったことを知る、いままで目にしたことのないものが見える、そういうことだと思う。
私は何かを探してうろうろしていることもあり、そしてまた、発見をもとめて仕事や趣味に向き合っていることもある。
そしてこれまでの経験から言えば、モノは別として、人や充実感や幸福といったことについては、探して見つかったためしがなかった。
探すという行為にいま美しさを思わないのは、自分はからっぽ、他者から何かを得て満たされたい、というイメージがあるからかもしれない。
ピカソ研究の日本における第一人者といわれる瀬木慎一は『ピカソ』(集英社新書)のなかで書いている。
ーー芸術における独創の定義は難しいが、最低限度の「発見」があることがその基準である。
ーー彼は芸術を様式にとどめることなく、内容として、表現として創出しているのであり、「発見」をこそ本質的要素としている。「発見」のない芸術は、彼にとっては芸術ではないのである。
ーー物理的に言っても、ピカソほど一日中描きつづけた画家はないだろう。逆に言えば、もう充分であるというのになお執拗に描きつづけたのは、「発見」への期待がなくては不可能である。それは、いわゆる職人タイプの画家の本能的動作とは異なる。
ピカソと比べるとなんにも言えなくなるから、いったん離れて、「発見」ということを見つめてみれば、私が本を書くときの原動力に「発見」は確実にある。
今回のダイアナの人生についても、誰も見出したことのない、彼女の魅力を発見したかった。
しばらくキーワードになるかな、「発見」。
さいきんの発見。この人生で出会えたたいせつな人たちとは、自らの努力(あえて、努力という言葉を使う)なしで、関係をよいままに維持できない。
写真は西陽が強烈なリビング、新刊とダイアナ愛用の香水と。