◎Tango アルゼンチンタンゴ ブログ「言葉美術館」 私のタンゴライフ

▪️どこまでも唯一無二(ユニーク)に

 

 ちょっと前に訪れた、とあるミロンガ(アルゼンチンタンゴのダンスパーティーみたいなの)。

 ひときわ、なんていうんだろう、とにかく楽しそうに踊る一人の男性に惹きつけられた。気になって、自分が踊っていないときは彼が踊るのを見ていた。彼のステップとかそういうのではなくて、彼の表情と踊っている相手の女性の表情を。

 踊る喜びみたいなのがあふれていた。相手の女性も、それぞれに、みなとても楽しそう。

 時が経って、私も彼に誘われてフロアに出た。ソフトなリードではない、私が聴いている音を聴いているような気もしない、かなり激しいかんじなので、へなちょこな私は、怪我をしないように気をつけなくちゃ、みたいになる。でも、むしょうに楽しい。彼が楽しくてしょうがないっていうのが伝染するかんじ。自分の表情がにこにこしているのがわかる。きっと楽しそうに見えるだろう、実際楽しいんだけど。

 踊り終わったあと、彼が、すごく楽しかった! と笑いかける。海外の方なので英語。私は彼に言った。あなたのタンゴはとってもユニーク!

 一緒に言ったお友達が教えてくれた。彼が言っていたと。自分はオンリーなんだ、って。

 たぶん、上手とかそういうのじゃないけど、オンリーなんだ、って自負があるってことなんだな、って私は受け取って、たしかに「オンリー」って、彼にふさわしい単語だと納得。

 彼はたぶんそれを自分のスタイルとしていて、そんな彼と踊るのが好きな人も嫌な人もいるのだろうけれど、そして私も彼と何度も踊りたい、というのとは違うけれど、好きだなあ、とは思う。

 私が彼に言った「ユニーク」、そして彼がお友達に言った「オンリー」について考えた。

 

「ユニーク」って、ふだんみんなはどんな意味で使っているのだろう。おもしろおかしい? 変なかんじ? 変わってるね? マイナスのイメージ? それともプラスの? 

 私が「ユニーク」って言うとき、それは「オンリー」と強く結びついている。

『嫉妬』というタイトルの本、女優のジャンヌ・モローの言葉が強烈に私のなかに存在し続けているからだ。

 恋多き女として有名なジャンヌ・モロー。あるときから「嫉妬」に支配されなくなったと言う。その理由として。

「自分にむかって、私は唯一無二(ユニーク)だって言えるようになったの。こういう女はわたししかいない。だから、たくさんの女性がいようと、多くの恋愛があろうと、わたしはやはり唯一無二の存在でありつづける」

 嫉妬は、誰かと自分を比較したときに生まれる感情だから、嫉妬からフリーになった、ということなのだろう。

「唯一無二」の横にルビとして「ユニーク」がある。

 もちろん同じ人間は誰一人としていないわけで、誰もが唯一無二であるわけなんだけど、唯一無二に磨きをかけるというか、唯一無二を存在証明くらいに思うか、そうじゃないか、ってところなのだと思う。

 根本的には誰もが違っても、それでも、「⚪︎⚪︎みたい」「⚪︎⚪︎に似てる」「⚪︎⚪︎より⚪︎⚪︎(比較される)」と思われるようなら「唯一無二(ユニーク)」はふさわしくない。

 そして、ユニークであるから自分には価値がある、みたいに思ったら、またそれは違ってきてしまう。唯一無二に価値を置くことと、自分が価値ある人間だと思うことは違う。私は自分に価値があるとは思わないし思えない。ただ、そこにいるだけだ。価値なんてどうでもいい、とさいきんは思う。けれどユニークな人にはどうしようもなく惹かれるし、だからユニークである、ということには価値を置き続ける。

 それにしても、アルゼンチンタンゴの踊りのスタイルというものもあって(疑似恋愛みたいという人もいるくらい)、ミロンガに出かけて、フロアを眺めていると、ここには恋愛におけるあれこれがぎゅっとつまっている、と思うことがよくある。

 自己顕示、承認欲求、欲望、駆け引き、嫉妬、虚実皮膜、選ばれる人選ばれない人、叶わぬ想い、誘われない寂しさ、特別だと思われたい、愛されたい、もっと、もっと…。

 だからおもしろい。

 来週火曜日のミロンガ「Switch スイッチ」のテーマは「どこまでもユニークに」にしよう。二人のDJ、選曲がどこまでも楽しみ。

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