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▪️台北の「tango party」TTW

2024/10/23

台湾で開催されたTTW(TAIPEI TANGO WEEKEND)に参加してきた。

帰国して2日間想定内のダウンタイムを過ごしたのち、記憶が薄れないうちに、ここに。

公式サイトには「tango party」とあるのに、一緒に参加したお友達たちとの間では「タンゴマラソン」となっている。なぜだろう。

きっと体力に恵まれていないことで共通している私たちにとって、このイベントはマラソンと呼ぶにふさわしい、ある意味、どこか過酷なかんじがあるからだろう。

1日目 9pm-2am

2日目 2pm-7pm  9pm-2pm

3日目 2pm-7pm  9pm-2pm

それぞれ5時間。日常では週に1度のタンゴタイムを楽しんでいる私にとっては、ひと月分を3日間で体験ということになる。

▪️台北前、台北後

去年が初めての参加で今年は2度目だった。去年の衝撃は大きかった。大きすぎて、ブログにも書けなかった。私としては台北前、台北後と言えるほどの変化があった。

ざっくりとふたつの要素がある。

ひとつ目は「ともに楽しむ」ようになった。
それまでだって楽しんではいた。けれど、なんて言ったらいいのか、踊る相手が上手だとかテクニックがすごいとかそういうのとは関係ないところで、対等気分でフロアに立つようになった。それがとても心地よいから、それを続けている。

▪️ドレス

ふたつ目は衣装。
去年は、私はいつものようにブラックドレスで参加した。自分なりにアレンジしたりしているけれど、ふだんの食事などにも着られるようなワンピース。

タンゴの世界を知るほどに警戒していたからだ。もう若くはない体を忘れてはいけないと。
けれど去年どっぷりと会場の雰囲気に浸りながら私は自分が場違いなファッションでいることが残念だった。その場にふさわしいファッションで存在していないことが、こんなに、もともとない自信を、消滅させてしまうのだなと、ほんとうに体感し、痛感した。

なんらかの会に参加するときに何を着るか。それはその会を主催している人への敬意の表明、その会自体への自分の意気込みの表明となる。

タンゴのパーティーにふさわしく、そして私の美意識からおっこちないファッションを。

自分の体をじっくりと観察して、どこをどのくらい隠して、どこをどのくらいどのように見せるか、そんなことと向き合っていた。

そして時がめぐって、ふたたび台北に行こうという時期。台北までに完成させようと格闘していた原稿のテーマがファッションだったので、ほんとうにいろんなことを考えた。

5着のドレス、3足のシューズをスーツケースに入れた。
いつ、どれを着ようかな、考えることが楽しかった。楽しいことが増えることはいいことだ。

旅立つ直前に原稿を編集者さんに送ることができて、うきうきと準備をしている私を見ていた娘が尋ねた。

「楽しみ何%?」

「120%!」と私は答えた。珍しいね、いつもは楽しみはあるけど、ちょっと面倒だとか、不安要素あり、とか言うのに、と彼女は驚いていた。

▪️途切れることのない空気

TTW、また行きたいと思った理由はいくつかある。私の好みのイベントだから、ということに尽きてしまうのだけれど、どんなところが好きか、考えてみた。

*ひたすら踊るだけ、というのがすごく好き。デモンストレーションがなくて、オーガナイザーの挨拶さえない。つまり、ミロンガが始まってから終わるまで、空気感がぶちっと途切れることがない。

*宣伝、ビジネス、お金のにおいがない。

*参加者が一定のルールをわきまえている。コルティナのときに次に踊る相手をさりげなく探してはいても、活動開始は曲が流れてから。そして目をふせていれば、無理に誘われることはない。誘われたいときは、勇気をふりしぼって、踊りたいんですオーラを出す、うまくいったりいかなかったり、そのあたりのひとりアップダウンが楽しい。

*ほどよい人数。これも大事だと思った。座る席があり、全員がフロアに出たとしても、ぎりぎり心地よく踊れるくらいの。とにかく多くの人を、というのとは違う。

オーガナイザーの人が来日したときに話す機会があった。私が上記のことを伝えて「だからとても感動しました」と言うと、彼女は「自分たちが行きたいような場を作りたいんです」と言っていた。
なるほど、こんなミロンガがあったらいいな、というのがあのカタチなのか。
自分が楽しめる場、ということも含まれるのだろうけれど、それでも、主催者側が楽しいだけでは参加者は置いて行かれてしまう。そうならないのは、きっと主催者グループが参加者になりきっているからではないだろうか。これはほんとうに難しいのだけれど、会場に目を配りながら、場の空気を見ながら、目立つことなくサポートする、みたいなかんじ。それでいて、場は用意したから、さあ、思い思いに楽しんでちょうだい、みたいな雰囲気もある。あくまでも私だけの感想です。

▪️相手を聴く

ふだん、日本でタンゴのイベントに行くことの少ない私にとって、はじめて踊る人ばかりという環境は新鮮だ。

踊り終わったあと席までエスコートしてくれながら、感想を伝えてくれる人もいる。そのキーワードから自分の踊りを相手がどんなふうに感じているのかが知ることができて興味深い。

今回つよく思ったのは、私は、私を聴いてくれる人との踊りが好き、ということ。

ていねいなリードならそれがある、というわけではない。そんなの無理、って思わずうふふと笑っちゃうようなリードであっても、私を聴いてくれる人とのタンゴはいい。また踊りたいって思う。

もうひとつは、一期一会を胸に抱いている人との踊りが好き、ということ。

この人はきっと、お上手なのだろう、という人であっても一期一会を感じられないとむなしい。タンゴはふたりで躍るものだから私にも責任があるのはわかっているけれど、そんなとき私は自分の個性が消滅したような感覚になる。むなしい、というよりもかなしい、に近いかな。

DJの重要さも再認識した。やはり好みのDJだとがぜんテンションがあがる。難しいよね、オリジナリティがなければその人がやる意味がないわけだし、それでいて、多くの人をフロアに出したいわけだし、盛り上げたいわけだし。

▪️友

2日目と3日目は最後までいた。午前2時を過ぎても、やむことのない音楽。ラストです、こんどこそラストです。そして最後はクンパルシータ。

3日目のラスト1時間は、意識がおかしかった。ワインを飲み過ぎないようにしていたから酔いのためではない。もうすぐ私たちの「マラソン」が終わるという感慨と、快楽による疲労と、そして単純な眠気のせい。

いつも踊っているお友達のリードが心地よくて、とろりんとしながら踊った。

いつも踊っているお友達、といえば、やはりこういうイベントに誰と行くかも、当然重要だ。その点私はとても恵まれている。誰もがタンゴをそれぞれのスタイルで愛し、誰もがそれぞれに敬意をいだき、絶妙の距離感の保ち方を知っている。

隣に座っていたはずのお友達がいつの間にかいなくなっている。踊りに出たわけではない。私が誘われやすいように離れたところに席を移ったのだ。彼は果敢にカベセオ(あなたと踊りたいけど、いかがでしょう? という目配せ)に挑み、フロアに出ていた。私たちのなかでいちばん踊っていたような気がする。

海外でも人気のあるお友達は、女性からの誘いが途切れない。そんな彼が私たちは自慢。彼といるだけで自分の格があがるような錯覚に。彼の足の痛みだけが心配だったけれど、3日間踊れてほんとうによかった。

彼女が美しくドレスアップして、きらきら輝いている姿は見ているだけで楽しい。目の保養とはこういうこと、あやしい目線を送ってしまう。そして今回の私のドレスに彼女が果たした役割は大きい。シェイシェイです。

旅行前に体調を崩して行けるかどうか危うかったお友達も、フロアで踊っている姿は独特の雰囲気で光っていた。夜市に誰も一緒に行ってくれなくて残念そうではあったけれど。

うまいへた、は私にはわからない。ただ、それぞれのスタイルが漠然と、ではなく、くっきりとある。それはそのままそのひとの人柄、おそらく歩んできた人生がにじみでたもの。愛しくてたまらないのはあたりまえ。

▪️出逢いと別れと出逢い

やりきった感があるね、というお友達の言葉にみんなうなずいていた。

お友達のひとりからのラインに、飛行機のなかでこみあげるものがあった、こんなのは初めて、という数行があって、私は泣きそうになってしまった。

書けないことも多いけれど、いまこれを書きながら思うことは、私はタンゴが好き、と思えていることが嬉しい、ということ。いろんな出来事のなかで、タンゴから離れてしまいそうだったり、じっさい距離を置いたりしながらも、それでもこんなに心躍ることが人生にあるということ、それを共有できる人たちがいることの幸福を思っている。

いつまで踊れるかわからない。これがさいごかもしれない。だからいつでもいつだって、いまこの瞬間を私は踊りたい。

来週、タンゴバー・シンルンボでのSwitchのテーマは「出逢いと別れと出逢い」。飛行機のなかでお友達が言った言葉だ。

出逢いがあり、別れがある。そしてまた出逢いが。
その相手は別の人であることがほとんどなのだろう。けれど同じ人と再び出逢うことも、またあるのだ。人生もタンゴも、そう。同じ人と再び出逢う、あの濃厚で奇跡的な感覚が表現できたらなあ、と思う。

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