▪️トルコ旅行記3日目 ピアフから3つのモスクを経てくるくるセマーで気を失う
2024/11/07
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★10/28(月)3日目
ピアフ的な朝食〜ブルーモスク〜グランドバザール〜スレイマニエ・モスク〜絶景レストラン〜リュステム・パシャ・モスク〜新市街のホテルへ〜くるくるセマー
▪️ピアフを聴きながらクロワッサンを
「今日はブルーモスクとスレイマニエ・モスク、グランドバザール、夜はくるくるセマー、そしてホテルに移動だね」
前を歩くYが振り返って言う。空が高く晴れ渡った爽やかな朝。目指すのはYがここに行くと決めているカフェ。歩いて10分くらいのところ、ちょっと狭い道の端にあった。
いかにもYが好きそうなかわいらしい外観だ。「クロワッサンのサンドイッチが美味しいって」と、いちおうクロワッサンが好きな私のことを考慮してくれているみたい。
さて中に入ろう、と扉を開けた瞬間、ストップモーションみたいになったのはエディット・ピアフの「いいえ、私は後悔しない Non,je ne regrette rien」が耳にとびこんできたからだ。
いつだって泣きたくなってしまうこの特別な曲が、早朝(私にとっては)のイスタンブール、旧市街の小さなカフェで私が入店した時刻に流れているだなんて。
席についても、しばらく呆けたようになってメニューに目がいかなかった。
クロワッサンのサンドイッチが有名なお店だからフランスの音楽、シャンソンが流れていてもぜんぜん不思議ではないのだけど、とにかく幸せな衝撃だった。
それが幸せという種類のものではないにしても、人生にはこういう小さな衝撃というのが、ときおり訪れる。そのたびに私は宇宙に放り出されたみたいになって、なにか自分が目に見えない大きな力のなかにある、って、そんなふうになる。
そしてクロワッサンのサンドイッチは美味しかった。とても大きくて。
私が選んだのはラタトゥイユ(ニースの郷土料理、野菜の煮込み)のサンドイッチ。ビネガーがきいていて好みの味つけ、つまり自分が作るものに似ていた。なので完食した。おなかがいっぱい。ぽんぽん。
Yはクリームをはさんだクロワッサン。甘い甘い、血糖値爆上がり、とかなんとか言いながら食べていた。
そしてブルーモスクに向かった。
歩いて15分くらいだったかな。歩きながらピアフの曲がずっとリフレイン。
イスタンブールの狭い道を縫うように歩きながら、そして広場を横切りながら、むしょうにタンゴが踊りたかった。ピアフのあの曲で。踊りたいなあ。
▪️ブルーモスクでのイケナイ感想
そして、朝一番で到着したのに、ブルーモスクはすでに長い行列ができていた。
どうする? 行列を見ると、わりと動いている。これは、嫌だけれど並ぼう。またあとで来るのもありだけど、もういいや、ってなってしまいそうだからね。
なんたってブルーモスクなのだ。ブルーモーメント代表のYと社員の私は訪れなければならない。謎の使命感があった。
「ブルーモスク」とは通称で、正式には「スルタンアフメト・モスク」。17世紀のはじめ、皇帝アフメト1世によって7年の歳月をかけて建造された。「世界でもっとも美しいモスク」といわれている。
ブルーのイズニックタイルやステンドグラスがそれはもう美しいのだという。楽しみにしていた。
行列はわりと早く進み、20分待ちで中に入ることができた。並んでいる間も各国の人たちのファッションやグループ内の人間関係などをあれこれ観察してはYと囁きあっていたので、それほど苦ではなかった。
そして、内部の装飾はたしかに美しかった。イズニックタイルも、そして陽の光をやわらかにまとった数々のステンドグラスも。
しかしながら、ここもまた、いかんせん、混んでいた。人、人、人。
そしてモスクでは靴を脱がなければならない。
入ってちょっと時間が経過したとき、Yが近づいてきてぼそっと言った。
「世界各国の足のにおいがする」
私はにおいには敏感なほうなので入った瞬間から、それは感じていた。靴を脱ぐモスクならではの話。
「ブルーモスク」。たしかにブルーの色はある。けれど、わあ、ブルー、というのとは違う。どちらかといえば、やさしいアイボリーにほんわりとしたブルーがほんわりとしたアクセントを添えている、といったかんじ。
美しいなあ、とは思った。けれど人混みにもまれながら感慨にひたるのは無理だった。
ひとまわりして、ブルーモスクをあとにした。
▪️グランドバザールよりも小さなお店
次に向かったグランドバザールはブルーモスクから15分くらいのところにある。
空気が暖かくなってきている。コートを脱いで歩いた。
雲がほわんほわんとあるけれど、今日もよく晴れている。風がないのが嬉しい。過ごしやすい、とはこのこと。この旅行ではほんとうに天気に恵まれた。旅行中ずっと「よいお天気」と胸を張って言えるような、疑いようもない晴天だった。
そしてグランドバザール。アーケードつきの市場。世界最古にして最大のバザール。
ここの人混みはもう…無理。すごかった。
あいかわらずの「アー・ユー・シスターズ?」攻撃、暴力的でさえある呼び込み。長くいることは不可能だった。何も買わないまま早々に立ち去った。
ところで、ずっと「人混み人混み」とうるさく言っているけれど、そしてこれは最終日に知ったことなのだけれど、私たちが訪れた日程は、トルコ観光シーズンの最後の最後、これで終わりですよー、という大型連休にあたっていた。
建国記念日が日程のなかにあることは直前に気づいて、これは失敗した、とは思っていたのだけれど、大型連休➕観光シーズンフィナーレとは。観光客が多いのも、地元の人たちが街に繰り出すのも、当然なのだった。
イスタンブールがもっとも混むときのひとつのシーズンに訪れてしまったことはたしかだった。
そして、私たち2人に共通していることなのだが、人混みがかなり苦手だった。私は幼い頃からデパートや遊園地に行くと必ず頭痛に苦しんだ。そしてYもまた。
2人とも人混みがだめ。なのに、激混みシーズンに訪れてしまったということになる。
2人の人間がいて、同じような苦境のなかにあるとき、たとえば空腹、たとえば暑い寒いといったこと、たとえば風邪をひいている…苦境ではないか、でもそのようなとき、わずかであっても自分のほうがマシと思ったら一方のフォローにまわることになる。
昨夜、気を失ったようになったYのようす、グランドバザールで、よれよれになっているYのようすから、私のほうがマシ、と判断したので、いつしか私は人混みがそれほどダメじゃないかも、みたいな感覚になっていた。ふしぎよね。
さて。
次に向かうのはスレイマニエ・モスク。歩いて15分くらい。急な坂道、階段が多い道を歩いたので汗ばむくらいになる。
途中、ぽつんとかわいいショップがあったので立ち寄った。
マダムがひとり、絵を描いていた。すべてはマダムの手描きの作品。こういうの大好き。マグネットを4つ購入。
▪️スレイマニエ・モスクで満たされる
よい気分でモスクを目指す。
スレイマニエ・モスク(スレイマン・モスク)! ここは、いちばん楽しみにしていたところ。
オスマン帝国最盛期の皇帝スレイマン1世が建造したモスク。建築はシナン。トルコ史上最高の建築家で「トルコのミケランジェロ」とも呼ばれる。
いろんな表記があるけど、ミマール・シナンが多いかな。スィナンとも。ミマールは建築家という意味。
「オスマン帝国外伝」にスレイマン1世が、なかなか完成しない建築中のモスクを訪ねるシーンがあった。
そこでスレイマン1世が目にしたのは、建設途中のドームのなか、ひとり座って小さな太鼓を叩くシナンの姿。早く完成させてくれって言っているのになんで太鼓叩いて遊んでいるのか、と問うとシナンは答える。声の響き方を研究しているんですよ、と。
また、私の推しキャラクターのひとり、ドラマのヒロインでもあるヒュッレム妃もここに眠る。
そんなシーンもあった。病によって死を意識し始めたスレイマンの寵妃ヒュッレムが言う。あなたが最高のモスクになると言っている、そのモスクに私を眠らせて、と。
完全にドラマの影響ではあるが、シナンの建築を見たかったし、スレイマン1世の廟、ヒュッレム妃の廟は訪れたかった。ヒュッレムの廟には一人娘ミフリマーも眠っている。そしてミフリマーにひそかに恋をしていたと言われるシナンの廟もまた、あるのだ。
スレイマニエ・モスクはイスタンブールにある7つの丘のひとつにそびえ立つ。急な階段を登りきった瞬間、眼前に広がった風景に、大きく声をあげてしまった。
海が、イスタンブールの街が、視界いっぱいに広がっていた。
絶景を背景に写真を撮る人たちの姿もあったけれど、そして私も記念撮影したけれど、それほど混んでいるわけではない。
モスクの中に入ると、さっきのブルーモスクの混雑が嘘のようにすいている。
これこれ、こうじゃないと。
信者だけが立ち入ることができるスペースでは何人かの人たちが祈りを捧げている。
赤い敷物も美しい。そこに座って、ゆったりと時が流れて、いつまでもこうしていられる、そんな空間だった。
西洋の大きな教会の椅子に座っているときも似た感覚になったことを思い出す。
私は信仰をもたないけれど、長い年月を経た祈りの場には、信仰をもたないものでも、心がしずまる、そういう力があるのだろう。
しばらく間、そこで過ごしてから外に出た。
訪れたかったそれぞれの廟の前で、彼らに想いを馳せて、なにかとても満ちたりたものを胸に、スレイマニエ・モスクをあとにした。
▪️絶景レストランで思ったこと
「近くに眺めのいいルーフなんとかっていうカフェがあるらしいからそこでお茶しよう」
Yの提案に頷いて、ルーフなんとか、へ。
ほぼ360度の絶景が広がるレストランは、人気のスポットらしくて、外側の席は埋まっていた。私たちは内側の席に座ることになった。
トルコスイーツを制覇する、と言っていたYはさんざん迷った結果バクラヴァを、それがビッグなことが想像できたので私はチャイだけをオーダーした。運ばれてきたものはやはり大きかった。
私もその存在を知っていた有名なスイーツ、バクラヴァは薄い生地を何層にも重ねてピスタチオやアーモンドを挟んで焼き上げたものをたぷたぷのシロップにつけたもの。トルコアイスが添えられていた。
私は一口でごちそうさま。
Yは、ここでも、うーん、と言いながらバクラヴァをつついて、私はチャイをちびちび飲んで、ゆっくりと時間を過ごした。
旅行中、いくつものカフェ、レストランに行ったけれど、このレストランで過ごした時間のことが一番つよく残っている。
私たちは内側の席だから絶景を見渡そうとするとどうしても、外側の席の人たちが目に入る。トルコの人たちも含めていろんな国の人たちがいた。
あるテーブルでは、若い女性5人グループが互いに写真を撮り合って、それぞれに画像を編集して、おそらくそれぞれのSNSにアップしていた。全員ハイブランドのこぶりのバッグをもっている。なんだかいろいろたいへんそう。
あるテーブルでは、絵に描いたような、映画のワンシーンのような光景が。
ぜったいにあぶないことを生業にしているに違いない男性3人女性1人のグループが豪勢な食事をしている。すごいタトゥー、時計もバッグも服も靴も、私たちのとは二桁違うんじゃないかな。
あるテーブルでは空いた席を取り合う人たちが争っている。客同士ではない。スタッフとだ。外側の席に座りたくて待っている人がいるのに、自分たちがなんとかして座ろうとしているのだった。
カモメがたくさん飛んでいる。
隣のテーブルの女性2人が、フォークの先にハムを刺して、空高くフォークを突き出す。一羽のカモメがハムをさらっていく。それを見ていた周りの人たちが次々と真似しだす。どんなふうに刺したら、何を刺したらカモメがついばむのか研究して、そのようすを動画に撮っている。
たくさんのカモメたちが餌をめがけて飛行してくる。
ヒッチコックの映画『鳥 The Birds』が思い浮かんで怖くなった。ほんとに怖い映画だから。ホラーだから。大量のカモメに襲われたら怖いだろうなあ。みんな、きゃっきゃ言いながら餌あげてるけど。
礼拝の「アザーン」が鳴り響く。
すぐそこにスレイマニエ・モスクがあるからだろう、すごく大きな声で、体の内側にずしんずしんと響くようだ。
礼拝の時間。けれど私はチャイを飲みながら、バクラヴァに首をかしげるYに笑いながら、絶景を眺め、テーブルを取り合う人たちや、マウントを取り合う人たちを観察している。
違うなあ、と思った。
いまこの瞬間、祈りを捧げている人がいて、カモメに自分のフォークから食事を与えようという人がいて、テーブルから落ちそうなほど豪勢な食事をするお金で着飾った人たちがいる。テーブルをめぐる争いがある。SNSに自分がいかにすてきなところにいるかリアルタイムでアップすることに懸命な人たちがいる。
違いすぎる。異なっている。それぞれすぎる。いま同じ時、同じ空間にいても、こんなに、ただ、違うのだ。
歴史上の多くの君主たちが欲しがった都市、洋の東西、歴史の新旧が交差する街イスタンブール、旧市街、スレイマニエ・モスク近くの絶景のカフェで私は思った。
戦争はたやすい。
人と人を争わせるのは簡単なんだろうな、という意味。宗教の違いでも国の違いでも経済格差でも思想でも、グループ分けして争わせるのはたやすい、そんなふうに思ったのだ。
▪️ぱちもんとケバブ
次に向かうのはリュステム・モスク。歩いて15分くらいのところにある。
坂道、階段だらけ、お店がずらりと並ぶ通りを歩く。
「ぱちもん天国だー」とYが言う。「ぱちもんばっかりだー」
偽物のことを「ぱちもん」って言うの知らなかった。音がかわいい。ぱちもん。
Yは「シャネル? ディオール? なんでも買ってあげるよ」とふざけたあと「規制が緩いんだね、きっと」と言った。
実にたくさんの「ハイブランドの品々」が山積みになっていた。
そんな通りを、毎度の「アー・ユー・シスターズ?」を浴びながら歩き、おなかがすいたから屋台のケバブを食べようということになった。
あんたたち懲りないねえ。と言わないでほしい。(「トルコ旅行記1日目」参照)
羊肉でなければ、あの、クレープみたいにして食べるケバブ、私は好きなのだ。30年くらい前にYの父親とギリシアを旅したとき食べたケバブはほんとうに美味しかった。
羊肉(マトンかラム)が本場の味だけれど、クセのないビーフやチキンも増えてきて、トルコにもそれらがある。
念のため、ケバブ屋さんのおじさまに確認する。これは何の肉ですか?
「チキンかビーフか選べるよ」
と聞こえた。
Yが「チキンは嫌だな、ビーフがいい」と言う。「ビーフでいいよ」と私は言う。
Yがもう一度おじさまに問う。
「これはビーフですね?」
念には念を、ですね。
おじさまは大きく頷いた。頷きましたよね?
なのに、ぜったい羊肉だった。
「ビーフ」が「マトン」か「ラム」に聞こえたのか。それとも嘘つきだったのか。わからない。
それでもクセは少なかったのでなんとか食して(私は)、目的地に向かう。
▪️リュステム・パシャ・モスクが私の「ブルーモスク」
目的地であるリュステム・モスクは1日目に訪れたエジプシャン・バザールの近く、商店街の2階にある。
入り口がわかりにくかった。こんなところにモスクがあるの? という、そういう場所だった。
けれど、けれど、このモスクが素晴らしかった。
リュステム・パシャ・モスク。スレイマン1世治世の後半の大宰相(皇帝に次ぐ権力者)リュステムが天才建築家シナンに建造させたモスク。
パシャって高官という意味。
スレイマニエ・モスクのおよそ5年後に建てられた。
膨大な量のイズニックタイルが有名だ。イズニックとはトルコ北東部にある都市の名で、9世紀から陶芸の産地として有名なところ。
タイル大好きな私としてはぜひとも訪れたいところだった。
そして、写真では見ていたけれど、もう、壁一面がタイル、タイル、タイル。美しいタイル。
偶像崇拝禁止のイスラム世界だからこそ、美を追求する人たちは、このような装飾に力を入れることになったのね。
タイルの「赤」が有名で、とくにチューリップ模様のチューリップに使われた赤い色が有名だけれど(こんな赤はいろんな条件が整わないと出せないらしい)、全体的にタイルはブルーが多くて、このモスクこそ「ブルーモスク」と呼ぶにふさわしい、と私は思った。
ここでも床に座ってゆっくりと過ごした。いつまでも熱心にお祈りをしている人の背中を見つめながら。
街の喧騒が嘘のようにガラガラにすいていた。
しずかなしずかなひとときだった。
▪️ボスポラス・ビュウの部屋で
モスクを出たのはたしか、15時半くらいだった。
さて、これからどうしましょう、ということになった。予定ではこの後18時半からの「セマー」(旋回舞踏)を鑑賞することになっていた。それまではどこかぶらぶらしてればいいね、と。
けれど人混みにやられている私たちに、どこかでぶらぶら、なんて芸当は到底無理だった。
かといってカフェでまったりしたいというのでもない。
「ケバブほとんど食べていないし、昨夜は食事しないで寝ちゃったし、今夜はちゃんと食事をしたい。いったんホテルを移って、ホテルの部屋で少し休んでセマーを見て、それからゆっくり食事というのはどうかな」
Yの提案に頷いた。疲れたしそうしよう。
イスタンブールに4泊。最初の2泊は旧市街のホテル、あとの2泊は新市街のホテルに泊まることになっていたのだ。
イスタンブールには3つのエリアがある。
私たちがいる旧市街(歴史的な建物が多く、京都みたいなかんじ)、金角湾をはさんで新市街(現代的な街、東京みたいなかんじ)、そしてアジア・サイド。アジア・サイドは観光名所の少ないローカルエリアといわれている。どこみたいなのかわからない。フェリーで3分だけ滞在したところだ(「トルコ旅行記2日目」参照)。
旧市街と新市街はそれほど離れていないので行き来は楽だと思っていた。それは間違っていない。渋滞がなければ。いいえ、車で移動しなければ。「イスタンブールは渋滞がひどいので公共の交通機関を利用しましょう」っていろんなところに書いてあった。でもスーツケースがあるし。
流しのタクシーに乗る勇気はないので、YがUberで手配してくれたタクシーに乗った。そしていったんいままでのホテルに戻ってスーツケースをピックアップして、待ってもらっていたタクシーに乗って新市街の次なるホテルに移動した。
こう書くとすんなりっぽいけれど、15分程度のはずのところに1時間もかかった。渋滞がひどくて。そしてタクシーは窓全開なのだった。ものすごい量の排気ガスを吸引しながら、疲れ果てて私たちは次なるホテルに辿り着いたのだった。
新市街の中心タクシム広場近くにあるCVK Park Bosphorus Hotel。
「ボスポラスビュウ」ボスポラス海峡が見える部屋を楽しみにしていた。
旧市街のホテルは残念だったから祈るようにしてボーイさんに続いて部屋に入った。
瞬間、歓声。なんてすてきな眺めなのでしょう。
ベッドにバウンドしておもいきりくつろぎながらボスポラス海峡を眺める。
「明るいうちに海が見たいなとも思っていたから、予定変更してよかったね」とYが言う。
「そうね、くるくるセマーのあとだと、真っ暗だものね」
私の「くるくるセマー」という言葉に、2人の間に緊張が走る。
そうだ、このあとセマーという予定があったのだった。いま来たばかりのあの旧市街に戻るのだ。渋滞のなか、排気ガスを吸引しながら、長時間かけて…。
明日に変更できるかも、と予約サイトを見たけれど、当日なのでできるわけもなかった。そしてあらためて金額を見ると1人5000円もするのだった。キャンセルなんてもったいない。でも、もう疲れた。そしてホテルの部屋はこんなに心地よい。
「やめちゃう?」
Yによる悪魔の囁きに頷いてしまいそう。Yはもともとセマーに興味がなく、でも夜だから一緒に来て欲しい、と私がお願いしていたのだ。Yから「お願いあきらめちゃって」という圧をひしひしと感じる。
でも私はくるくるセマーを楽しみにしていたのだ、すごく、すごく楽しみにしていたのだ。あれを見なかったら悔やむだろうなあ。
「それにさあ、渋滞で時間がかかったし、これから戻るにも時間がかかるだろうし、渋滞を考慮すると10分くらいで出かけないとだよ」
グーグルマップで渋滞のようすをチェックしながらYが言う。
えー、あと10分でいま来たばかりの道を走ることになるのお?
もうあとひとおし、ってところです。私はへなちょこなのです。
でも、でも、見たい、くるくるセマー見たい!
「行こう、一緒に行ってくれたのむ」
そう言うと私はベットから飛び降りてスニーカーを履いた。他人の靴のように、きつきつだ。足がむくんでいる。
「いくんかーい」
叫びながらもYは支度をしてくれて私たちはホテルを出た。渋滞はずいぶん解消されていて、来たときの三分の一くらいの時間で目的地周辺に到着。
会場であるホジャパシャ文化センターもすぐに見つけられて、早く着きすぎた私たちはほぼ一番乗り。長い待ち時間を過ごしたのだった。
▪️くるくるセマー物語
さて、ここで、くるくるセマーの話を。
セマー(sema)ってイスラム神秘主義(スーフィズム)の教団の一派であるメヴレヴィー教団の宗教儀式である旋回舞踏。
13世紀にコンヤという街で教団を設立したメヴラーナ・ジェラーレッディン・ルーミーの教えを表現していて、高い帽子、長いスカートが特徴の白装束を身に纏った男の人たちが、ひたすらくるくる回転するというもの。ユネスコの無形文化財に登録されている。
白装束の踊り手(セマーゼン)が左足を軸にしてくるくると回り続ける。回転は神アッラーを象徴していて、半回転は「アッ」、もう半回転は「ラー」。回ることでトランス状態になることによって、神との一体感を追求するというもの。
右手を上に、左手を下に向けているのは、右手で神からの啓示を受け取って、左手で地上の人々にそれを与えるため。
世界史の勉強をしているときも、それからなにらかのタイミングで動画を見たりしたときも、ドラマとか映画で目にしたときも、みょうに惹かれていて、いつか本場で見てみたいと思っていたのだった。
コンヤという街はかなり遠くて今回は無理だけど、イスタンブールのホジャパシャ文化センターでほぼ毎晩ショーがあると知ったから、予約しておいたのだった。
さてさて。ようやく時間になった。
会場は60人くらいの人たちで満席。宗教儀式だから撮影は禁止。拍手もなし。
はじめにアナウンスでざっとした説明が流れた。それから厳かに楽師たちが入場。朗誦する人、尺八のような縦笛の人、琵琶みたいな弦楽器の人…。
演奏ののち、セマーゼン入場。6人だったかな。楽師の奏でる音楽のなか、白装束の上にはおっていた黒いマントを脱いで、ひとりずつ、くるくる回り始める。
体の前で組まれた腕がやがて解かれて、首を傾げて、右手を上に左手を下にしてくるくる。左足を軸にしてくるくる。だんだん速くなる。人によってスピードも、表情も違う。あの人は深いトランス状態にある、と思う人もいれば、そこまで感じられない人もいる。でも惹きつけられる。なんなんだろう、これ。
くるくるくる…。トランス状態に入った男の人たちが至近距離で、くるくる。
タンゴを踊っているときと似ている空気感につつまれる。あの表情、一種のトランス状態の、あの感覚…
ああ、と思った。
わかるような気がする。
▪️そして私は気を失った
ショーは50分くらいだったと思う。おそらく15分から20分くらいが経過したころ、異変が。
息苦しくなって、くらくらしてきて…なんだかきもち悪い。
たまにおこるパニックの発作かな。まずいな、とバッグからごそごそと薬を取り出して飲む。すぐに効くわけではないからひたすら耐える。冷や汗が出てくる。
どうしようどうしよう。この雰囲気のなか席を立つのはかなり勇気がいるし、パニックには慣れているし、薬が効いてくれば大丈夫だろう、とひたすら耐えたのだけれど、最後までこの状態が続いた。薬が効かないなんて。パニックの発作じゃないのかな。
ショウが終わり、終わった終わった、という顔をしているYに言った。
「ちょっときもち悪くなっちゃって」
でも歩けないほどじゃないからと、よろよろ会場を出る。会場前で不謹慎なポーズをとって記念撮影したくらいだから重症ではない。そして、薬が効かないからいつものパニックとは違う。
きもち悪いのが治らない。よろよろと歩く。近くのシルケジ駅の構内のベンチで休む。
お昼の嘘つきケバブで胃がやられたのかも。と胃薬を飲む。
「症状がわからないからとりあえずなんでも飲んじゃえ、ってやめたほうがいいよー」とYが言うけど、だってわからないんだからしょうがない。
この駅はオリエント急行の終着駅で、停車するときに使われた1番線ホームには、1890年創業の「オリエント・エクスプレス・レストラン」があるって…とYが隣で説明してくれている。
ぼんやりと思う。ああ、そのレストランで食事しようか、って話していたんだっけ。でも、大変申し訳ないと思うけど、食事なんて、無理…
といったことをYに告げる。
「そうだよね、じゃあ何か買ってホテルに帰ろう」
ああ、でも、もう何か買うために歩くのもしんどい。
「ごめん、ホテルのルームサービスでなんでも頼んでいいからホテルへ…。そしてあそこの売店でお水を買ってビニール袋をもらって。リバースしてもいいように、タクシーの中で」
「えー。そんななの?」
「いや、大丈夫だと思うけど、いざという時にはこれがある、と思うことで精神の安定を…」
はいよー、と言ってYがお水を買って、ビニール袋を差し出す。そしてUberでタクシーを手配してくれる。
私は思った。
体調精神不良でしんどかった一時期、Yが中学生だったころは、自分が不調なのを隠さなければならないと必死だったけれど、そして今だって迷惑も心配もかけたくないから嫌なんだけど、でも、なんというか、あのときとは違う感覚がある。
とてもとても、時の流れを感じた。泣きたいくらいに。
夜道はすいていてあっという間にホテルに到着。
Yはルームサービスでスープを頼み、私はシャワーを浴びて、Yがシャワーを浴びているときにベッドで気を失っていた。
写真をしっかり撮られていた。とてもじゃないけどここにはアップできない写真を。
ベッドカバーの上に斜めになって、本を手に眠る私の姿、それは波打ち際に打ち寄せられた…人魚と言いたいところだがとうてい言えない、気を失った魚のようだった。
(続く)→▪️トルコ旅行記4日目 新市街散策、ナザボンと猫を経てワインのコルクが抜けない
*くるくるセマーはこちらからどうぞ。ホジャパシャ文化センターのがあったので。1分くらい。