▪️トルコ旅行記6日目・最終日「カッパドキアの啓示」から「ターコイズの屈辱」を経てナザボンの鍵で扉を開ける
*トルコ旅行記1日目
*トルコ旅行記2日目
*トルコ旅行記3日目
*トルコ旅行記4日目
*トルコ旅行記5日目
★10/31(木)6日目(最終日)
カッパドキアの洞窟ホテルで気球を見る〜ガイドつき観光「妖精の煙突」「地下都市」「トルコ石店」「ワイナリー」〜ギョルメの街を散策〜カッパドキア、ネヴシェヒル空港〜イスタンブール〜羽田空港
▪️カッパドキアの気球と「カッパドキアの啓示」
礼拝のアザーンの前に目が覚めた。というより5時半にかけたアラームで目覚めた。眠い。のろのろと起きて、階下に降りてカーテンを開けると外は真っ暗。
同じくとても眠そうにしているYに言う。
「6時って言ったよね?」
Yはまぶた半分状態で頷く。
昨夕、部屋まで案内してくれたホテルのスタッフの男性が「ここが気球スポットです」と、ぐるぐる歩いてぐるぐる階段を登ったところにあるテラスに案内してくれたのだった。そこは、外のテラスなのに敷物が敷いてあって、いかにも「ここで気球を見たら最高です」といった雰囲気だった。
「明日の朝、6時です」
彼はそう言ったのだ。私たちはカッパドキアに来たらやはり気球を見ることは外せない、と昨夜5時半にアラームをセットして眠りについたのだ。
けれどよく考えてみればイスタンブールのレストランで朝食をとっていた7時半すぎ、あわい朝陽がようやく空全体をあわあわと染めたのではなかったか。7時くらいに陽がのぼったのではなかったっけ。
でも6時って、はっきり言ったのだから。もしかしたら朝陽がのぼる前は気球がライトアップされていて綺麗とか。そうなのかな。あ、朝陽を見るためだから出発は夜明け前って書いてあるよ。もう飛んでいるのに見えていないとか。それはないよ。とにかく準備するか。すっぴんでいいよね。もちろん。でも血色悪くて幽霊みたいだからリップだけは塗ってくれる? ひどいね。だってほんとなんだもん。お互いにね。
そんな会話をしながら、もってきた服をたくさん着こみながら、窓の外を見る。何も起こらない。6時半が過ぎたころだろうか。Yが言う。
「天候の状況で上がらないときもあるっていうから今日はそうなのかな。でも暗いけど風もないし、雨も降ってないよねえ」
「上がらなかったらショックだね」と私は言った。気球をすごく楽しみにしていたというのではない。けれど早起きを無駄にしたくない、という意地汚い欲望が。
まだかなまだかな、と服を着こみすぎて、床暖房でぽかぽかの部屋で汗をかきそうになりながら待っていたとき、窓を眺めていたYが「あ! 準備してるよ!」と言った。
窓にかけより、外を眺めると、彼方の下部、地上でほわん、ほわん、と気球がかわるがわる、明るく光っている。バーナーで! 光ってる! たくさんの気球たちが準備をしている! もぞもぞ、もぞもぞ。
私はあのときの風景がすごく残っている。こののち見ることになる風景よりもずっと。あの彼方の地上部で、明るくなったり暗くなったりしている気球、もぞもぞとしている気球の群れ、その風景がおかしすぎた。
行こう。部屋を出てテラスに向かう。冷たい空気が頬にピンとあたる。
「なんかこのかんじも軽井沢を思い出すよね」とYが言った。
「暖かな部屋、外に出るとピンとした冷気、たしかにね」
あとで知ったのだけど、この朝は氷点下1度だった。
テラスには私たちだけだった。寒い寒いとふるえながら気球が上がるのを待った。やがて一つ二つ、数十分かけて50個近い数の気球が、バーナーでほのかに光った気球が、ようやく明るくなり始めた空に浮かんだ。
たしかに圧巻だった。
「乗ればよかったと思ってる?」
気球を見上げながら、気球に向かって手をふりながらYが言う。
「乗れば楽しいだろうけど、無理」
私は高所恐怖症なのです。あれに乗っているところを想像するだけで足がすくむ。なるべくそれは想像しないように、素晴らしいはじめての景観、としてカッパドキアの気球を堪能した。
写真を撮って部屋に戻ろう。
こんなかんじ? と両手をばんざいしてみる。
「いるいる、そういうひと、よくSNSで見る」
そう言いながらYが写真を撮ってくれる。
お互いに撮りあって、足早に部屋に戻った。
「あー、暖かい。ほんと、この感覚、軽井沢の家を思い出すなあ」とYが言い、私は頷く。……なつかしい。
そして部屋の窓からもたくさんの気球が見えるのだった。
数はさらに増えている。
7時でもよかった。そしてテラスに行かなくても充分見られた。けれど。
「早く起きたから、あのもぞもぞ準備している気球たちが見れたのだよ、私は満足」
「テラスも気持ちよかったしね」
「そうそう。ところで朝食まで20分もあるよ、おなかすいた」
「この旅行中ずっと、ハラヘリ小僧になってるね」
「胃がおかしくなったのかな」
そんなどうでもいい話をしたあと、Yが言った。
「昨日も思ったんだけど、そして今やっぱり、って思っていることがあるんだけど。なんだかわかる?」
このひとは、いいえ、私たちはこういう質問をよくし合っているような気がする。
聞くときはわくわくして、聞かれてわかったときは得意だし、わからなかったときは面倒な質問をしおって、と思う。
このときはわかったので得意になって答えた。
「軽井沢の家に住むっていうんでしょ」
「あたりー」
このところ、Yの仕事の必要性からスペース探しをしていた。ここで細かいことは述べないけれど次のようなこと。
「すべての条件を備えているところがあるじゃない! って思ったんだよー。この部屋で過ごして、ピンときたっていうか、もう、これしかないってかんじで。イメージががんがんわいてくる」
この会話以来、いまに至るまで(と言っても1週間ちょっとだけれど)、私たちのなかで「軽井沢の家」がキーワードとなっている。
完全移住はしない。タンゴがあるし。でもどんな形かわからないけれど、もしかしたら近い将来、軽井沢の家で過ごす時間をもつようになるかもしれない。あくまでも可能性の話だけれど。
つい先程もYが言っていた。
「カッパドキアには、いや、トルコにはあの啓示を受けるために行ったんだ、ってくらいに思うよ」
「カッパドキアの啓示」と呼ぼう「カノッサの屈辱」には負けるが、と私は言った。どうなることやら。
時間になったので、いそいそとレストランへ。いつものようにほぼ一番乗り。
洞窟ホテルのレストランはやはり洞窟だった。当たり前。
窓際の席で、まだ残っているいくつかの気球を眺めながら朝食をとった。
今日は「カッパドキア観光の1日」だ。前日に「日本語ガイドつきツアー」を予約していた。ガイドさんについてゆけば、主要なところをめぐることができる。
こういうのはけっして好きではない。同行者がいるかどうか、どのくらいの人数がいるかわからないけれど、団体行動だ。
けれど、いかんせん観光のための準備の時間が足りていない。そして楽をしたかった。車に乗っていればいろんなとこに行けて説明を受けることができる環境がこのときは魅力的に思えた。
こういうのを私より好まないYは「まあ、何事も体験、ってことで。新鮮っていうことで」とかなんとか言っていた。「気になるのが、ランチはトルコ料理、って書いてあるところだよ」
それだけが心配よね、ほんと。
10時から15時くらいまでガイドつきの観光。それを終えたらギョレメの街に戻って、ぶらぶら散策。夜20時ホテルでミニバスにピックアップしてもらってカッパドキア、ネヴシェヒル空港へ。イスタンブール空港で3時間過ごしてから日本、羽田空港へ。という予定。盛りだくさんなかんじ。
パッキングを終えて、うっかりとスーツケースをごろごろして部屋を出た。すぐに失敗したことに気づいた。フロントまでの道のりを思ったのだ。これ、無理だよ。いくつもの階段を。でも行けるかも。
謎のチャレンジ精神が湧き起こり、手と腰を駆使して上がって、あともう少し、ということで限界。倒れるようにしてスーツケース階段運びゲームからおりた。フロントまで続く最後の階段が果てしなく長く見えたからだ。
「こういうホテルなんだから部屋にスーツケース置いてくるんだね、間違えちゃったね」
そう言ってYはフロントに声をかけにいってくれた。
広いテラスのベンチに腰を下ろして彼らを待った。腕や腰がじんじんしている。こういうのを無理をする、というのだ。あぶないところだった。体を壊したらタンゴが踊れない。
最後の難関、長い階段を前に放置された二つのスーツケースの姿がもの悲しい。写真など撮ってしまった。
▪️奇岩の群れと地下都市に私を想う
カッパドキアは、トルコの中央部アナトリア高原に広がるとてもとても大きな奇岩地帯。
数億年前に起きた二つの火山の大噴火によって造られた。火山灰と溶岩が積み重なって幾重もの層が造られ、長い年月をかけて風雨による侵食がすすんで、いまでは硬いところだけが残されている。その結果、見ようによって「○○みたーい」と言いたくなる奇妙な形の岩がたくさんできた。
代表がキノコみたいなのに代表される奇岩群で、「妖精の煙突」なんていうファンシーな呼び名で愛でられている。妖精が住んでいる、と思われていたらしい。
事前勉強なしでまわるツアー、ガイドさんの説明はありがたかった。ふーむふむふむ。
もっとも興味深かったのが「地下都市」。
カッパドキアの洞窟は、ローマ帝国に迫害されたキリスト教徒たちの隠れ家ともなっていた。洞窟だけではない。キリスト教徒は地下にも身を潜めた。それが「地下都市」だ。2世紀から4世紀ころはローマ帝国から、7世紀以降はアラブ人やペルシャ人の襲撃から逃れるために彼らは「地下都市」で生活をした。
彼らが最初から造ったのではなく、もともとはこの地に住むヒッタイト人が周辺の民族の侵略から身を隠すために掘ったと言われている。それを再利用したみたいなかんじ。だとしたらずいぶん古い。紀元前1500年頃という説もあるけれど、まだわからないことが多いらしい。
とにかく「地下都市」は迫害されたキリスト教徒たちが暮らしていたところなのだ。
観光なんだけど観光気分になるのが難しかった。
どうしても彼らの想いを想像してしまう。
蟻の巣みたいな地下都市のなかを身をかがめて歩いて、ワイン醸造所や貯蔵庫を見て、キリストの血たるワインを造っていた人たちを想像する。貯蔵するのに地下はよい環境のようだったけれど。
洞窟ホテルだって、もとは迫害されたキリスト教徒たちが……と考えればファンタスティックに過ごすことはできない。考えないようにしていたけれど。
「地下都市」はきれいなホテルに変身していないからリアルにいろんなことが想像できてしまった。
写真は撮っていない。
いつの時代も迫害するひと、迫害されるひとがいる。いつの時代もそれでもなんとか生き延びようとするひとがいる。そんななかで小さな喜びや大きな喜び、同様に苦しみもあったのだろう。日々の生活があったのだ。
空に浮かぶ気球から地下都市へ。感情がついてゆかないけれど、このところよく着地するところへぽんと着地した。
私という存在はほんとうにちいさなちいさな存在。脈々と続く歴史のなかの目に見えないくらいの点。大河の一滴。
それでも生きている間、何をしましょうか、ということなのだ。伝えましょうよ、ということなのだ。私が感じた熱を、それが悲しいものでも喜びでもなんでも、伝えたい熱があったならそれを伝える、ということを私はしたい。
▪️「ターコイズの屈辱」と木に成るナザボン、そしてワイナリーの歓喜
ツアーにもれなくついてくるお土産屋さんにいくつか寄った。華やかな柄の服があふれるようにあるお店で、オーナーとの値下げ交渉を楽しんで、彼いわく「ジャパン・モンペ」のアラジンパンツと、超ロングのワイドスカートに見えるパンツを買った。
トルコ石(ターコイズ)のお店では、美しいターコイズたちを前にうっとりとしたが、よほど安くてかつ出合い的な感覚がないかぎり、買うつもりはなかった。私は、長年の経済状況もやはり影響しているのだろうか、それとも性質か、美しい宝石を見るのは好きだけれど、それが宝石を買うということにつながらない。宝石を所有して身につける、という欲がないみたい。
それでも、店主のおじさまが私から離れない。出されるまま指輪を指にはめる。
「きれいだけど、高くて買えません」と言い、去ろうとすると「どのくらいなら買えるのか」となぜか詰問調でせまりくるおじさま。
かなりささやかな金額を言うと、目に見えないくらい小さな石がついた指輪を出してきてくれる。こんなのにお金を使うつもりはない。
「私は大きいのが好きなのです」
無駄な時間とはこのことか。
Yが寄ってきて後ろからそっと囁く。「買わないんだからもう行こうよ」
そして出口に向かおうとした、そのとき、おじさまが怒りに満ちた口調で言った。
「あなたの娘はなぜあんなシビアな顔をしているのか」
それは私をカモにしないためです。
見せてくれてありがとうございました、と言い、Yについてお店を出た。
シビアな顔をしたYがシビアな調子で言う。
「なんであんな言われ方をしなくちゃいけないの」
それからおじさまの口調を真似して笑ったあと言った。
「シビアだってなんだっていいよ。いつだって、なめられたくないんだよね」
時代のせいか性格のせいか職種のせいか。
私には「なめられたくない」という感覚があまりない。だからそこかしこでなめられているのかもしれない。
そして出版社を設立してからずっと、設立した当初はとくに、仕事にまつわるありとあらゆるひとたちから「若いから、女性だから、フリーだから」なめられ続けてきていまにいたるYのことを思った。闘っているんだなあ。私みたいな態度を見ていると後ろからケリ入れたくなるだろうなあ。でもケリを入れるようなひとじゃなくてよかった。痛いのは嫌だもの。
とはいえ、たしかにあんなふうにおじさまに言われる筋合いはないぞ。
この事件を「ターコイズの屈辱」と名づけよう。「カッパドキアの啓示」より「カノッサの屈辱」に近づいた。私は「カノッサの屈辱」が大好きなのだ。
さて。
快適なバンの窓外は絶景が続く。「そんななかでもとりわけ絶景ポイント」なところで何度か車から降りた。
ある絶景ポイントで、愛しいものたちに出会った。「ナザボン」! たくさんのナザールボンジュウが木に成っている!
日本のおみくじみたいに。
お土産屋さんに並ぶナザボンよりもずっとずっと愛しかった。好き。
ワイナリーにも行った。
同じツアーの同行者の方がガイドさんにリクエストしたからだ。ガイドさんが私たち二人さえよければ行きましょう、と言った。
断る理由なんてない。喝采をあげたかったくらいだ。トルコワイン! カッパドキアのワイナリー!
ありがとう同行者!
ツアーの同行者は一家族だけだった。日本語ガイドだから日本人が参加するわけで、同行者がどんな人たちかで今日1日が決まるといっても過言ではない。好き嫌いが激しい私にとってはとくにそう。そういう意味においてツアー参加はギャンブルでもあった。
まとめて言ってしまえば、あらゆるパターンを想定したとき、今回は当たりと言っていいと思う。私たちの関係性は聞かれたけれど、プライベートなことをあれこれ聞いてきたりしなかったからだ。幼いお嬢さんをつれたご夫婦で、ラクダを見たときに「camel!」とお嬢さんに教えていた、その発音がすばらしくて感心したことが強く印象に残っている。キャモー、って聞こえた。
さてさて。
ガイドさんが連れて行ってくれたワイナリーは「コジャバー(KOCABAG)」。
無勉強で来ているから、はじめて知った。トルコワインが有名なのは知っていた。私はワインが好きだけれど詳しくはない。でも飲むのは大好き。ちょこちょこいろんなのが飲める試飲はとっても好き。
だけど、コジャバーでは、あらかじめ決められている4種類のワインだけが試飲可能で、料金が日本円にして2000円くらいだった。
えー、もっといろんなの飲めないのお? と一瞬落胆したけれど、もちろん試飲をする。
最初に飲んだ白ワインが驚くほどに好みだったけれど高価だった。4種類試飲して赤ワインを一本買った。試飲ができなかった安めの赤ワイン。デザインが気球でかわいかったから。どんな味がするのか楽しみ。
ツアーで印象に残っているのはこれくらい。
そうそう、心配していたトルコ料理のランチは、心配していた通りだった。もうしつこいから書かない。
運転手のためにチップをよろしく、とすずやかに言うガイドさんにチップを渡して解散となった。15時くらいだっただろうか。
空港へのミニバスが迎えに来る20時までの5時間をギョルメの街で過ごした。
▪️シーシャカフェに流れるタンゴとYが「トルコに嫌われている」
残ったトルコリラでお土産を買ったりしながら街を歩いた。ここも呼び込み、ガン見、「アー・ユー・シスターズ?」攻撃、コンニチワ! ニイハオ! を浴びながら歩いた。
「あー、もう、ほんとにすごい。スターってたいへんだね。外を歩けばみんなに見られて声かけられて。疲れるだろうね」
うんざりした表情でYが続ける。
「ほら、またガン見です、ガン見中ガン見中……」
警報みたいな調子で言う。
数秒後には私が「ガン見されてます。Yのことを上から下まで眺めています。なめるように眺めるとはあのことですね」とアナウンサー風に語る。
でもさ、とY。ひとりでヨーロッパを歩いたときはこんなことはなかった。
いつしか、ガン見されたり声をかけられたりしているのは私のせいになっている。なんか、そんな雰囲気を出しているに違いない、と主張してるし。
大スターY様の苛立ちの矛先が私に向かっている!
いやいや。トルコの人たちから見れば、私たちはどこの国かわからないけど平らな顔をしたアジア人。似たような背格好で、似たような顔をして歩いているアジア人。ひやかしたくなるんでしょうよ。
そうかね。そうだよ。マリリンの気持ちがわかる。スターはたいへんね。よかった、スターじゃなくて。よかったよかった。
そんなことを言い合いながら街を歩き、ほんとうに、ガン見も声かけも、もう無理、となったのでどこかのカフェに逃げこむことにした。
あと2時間近くあるからゆっくりできるところを探しましょう、となればやはり、トルコ最後のシーシャ。
探して歩き回るけれど、ここ、というところがない。歩き疲れて、もう、ここでいーや、と投げやりなかんじで入ったお店は、誰もお客さんがいなかった。しーん。
でもシーシャはあるって表のメニューにあったし、スイーツも何種類かあった。
ところが。私は赤ワインとシーシャを、Yがチャイをオーダーすると、信じ難いことに「チャイはありません」と言う。コーヒーだけです、ついでにスイーツもありません、だって。
Yはコーヒーを飲まない。温かいのが飲みたかったのに何もない。甘いものが食べたかったのに何もない。しかたなくオレンジジュースを頼んでいた。「冷えた体に冷えたジュース」とかぶつぶつ言いながら。
「トルコ最後のカフェがこれかあ。やっぱりトルコに嫌われてる」とYが言った。
「トルコに嫌われている」、Yのこのセリフを旅行中何度聞いただろう。
「メモしてあるんだよね、読み上げていい?」とY。「ぜひ」と私。
トルコ旅行反省会が始まりましたね。
Yと話しながら私もメモしたので、それをもとにざっとまとめると下記の通り。カッコ内の数字は「嫌われっぷり」、Yのショック度を表す。1から5。数字が大きいほどショックが大きい。
それは成田空港、ターキッシュエアラインズで英語テストに怯えたことに始まった(1)。イスタンブール空港からホテルまでの車、天井に大量の虫事件(2)、高額だったのに残念だったホテル(1)、夜のケバブレストラン、お肉や永遠に来ないチャイなど残念すぎた(3)。
行きたかったカフェも運悪くシェフが外出していて朝食が食べられなかったでしょ(2)。トプカプ宮殿、ダメなチケット、入場し直し、激混み、日本語オーディオガイド使用できなかったし(3)、シーシャカフェではじめて頼んだトルコスイーツは口に合わず(1)、観光地価格の高額リフレで爪でひっかかれて最悪な思いをし(4)、どんなに疲れていても美肌のためメイクだけは落として寝るのにメイクしたまま撃沈してしまった(1)。
ブルーモスクのにおいのこともあったね(4)、クレープみたいなケバブが牛肉だと思ったら羊肉だったこともね(3)、それからくるくるセマーで母親がきもち悪くなって、楽しみにしていた夜ご飯が食べられなかったこと(5)、香水瓶が割れていて交換に行ったらそれも不良品だったこと(4)、そしてやっと入ったこのカフェ、チャイもスイーツもない(2)
いままでの海外旅行でこんなことってなかったんだよね。
書きとめ終えて私は言った。「私が原因のが唯一にして最高点の5を記録していることに感動だよ」
しくしく。
「でも旅行の満足度としてはかなり高いかな」とY。
「へー。意外」
「だっておなかいっぱいだもん。いいも悪いも刺激でおなかいっぱい。早く帰りたいもん。これって満足度高いってことでしょう」
お味噌汁を飲みたい。なんて思った旅行もはじめてだよ、とYは言った。
それから残りの時間をまったりと過ごした。
いつからかカフェにはタンゴが流れていた。クンパルシータ、エル・チョクロ……有名な曲が次々と流れる。ああ、日本に帰ったら彼らと踊りたいなあ。
あいかわらず私たち以外にお客さんはいなくて、数人のお店のスタッフのひとたちがテーブルに座って雑談をしている。
暖かくて、窓にはずらりとナザボンが飾られていて、シーシャも赤ワインも美味しくて、そしてタンゴが流れている。
とても好きな空間、時間だった。
Yは気の毒だったけれど。
ふたりでどっちがシーシャの煙をたくさん出せるか動画を撮って競ったりした。お腹が痛くなるほどに笑った。
▪️帰国
帰途はスムーズだった。
カッパドキアのネヴシェヒル空港、セキュリティチェックのところで係の男性に「あなたが母親であなたが娘?」って、セキュリティに関係ないことを問われたときには、空港の係りのひとがそんなことを言うのか、という驚きと、はじめて母と娘、と言われたことで「アー・ユー・シスターズ?」の終焉を感じた。
トランジットもスムーズで、ばいばいイスタンブール。
帰りの飛行機はごく普通のエコノミーだから足がつらかった。3列シートの通路側を2席予約していた。トイレに行きやすいように窓際はとらない。窓際には知的っぽい40歳前後に見える男性が座っていた。彼はトイレに行くとき、私たちをまたぐのが大変だろうな、と心配していたら一度も席を立たず、身動きもほどんどしなかった。
行きの飛行機の彼のようだった。もちろん別人だったけれど。体を動かさなくてもよくてトイレにも行かないなんて体の作りが違うのだろうか。私は足がだるくて何度か徘徊していたというのに。
また、私たちの前列シートにはトルコの若者グループが乗っていた。全員男性で、日本観光にはしゃいでいるようすだった。ワイワイと。あまり好ましくないかんじで。そして私の前列シートの男性はずっと、思いきりリクライニングしていた。とても狭く感じたよ。
羽田空港に着いてスーツケースを待っているときに、レーンの向かい側に彼らがいた。
日本語が書かれたTシャツを着て、ワイワイはしゃいでいる。私の前列シートの若者もいた。私は恨みがましく、ここにはとうてい書けない暴言をぼそぼそと吐いていた。
彼の前の人が移動して彼の上半身が見えた。彼もまた日本語が書かれたTシャツを着ていた。その文字を認めた瞬間、吹き出してしまった。それから文字通りお腹をかかえて、はしたないほどに笑った。笑いはなかなか止まらなかった。彼のTシャツには大きく、黒い文字で「ばか」と書かれていた。
たった1週間なのにとても長い間遠くに行っていた気がする。そんなことを言いながら自宅玄関の鍵を開ける。かちゃ。
鍵には、最後のカフェでつけかえたナザボンが揺れて、こうして私たちのトルコ旅行が終わった。
旅行中、Yに問われた。「旅行記書くの?」
「わからない。帰国して、書きたかったら書くし、書きたくなかったら書かないし」
「自由でよいですねえ」とYは言った。
帰国して翌日から1週間、ずっとこの旅行記を書いていた。
あるお友達は「ちょいちょいっと10分くらいで書いているんだと思った」と言っていたけれど、とんでもない。私の才能では1日分を書くのに1日がかりなのです。
新刊の原稿に取りかかるのを1週間遅らせてまで、仕事の原稿の締め切り間際のように毎日机に向かって、読む人がそんなに多くないだろう旅行記を書いたのは、書きたかったからという理由につきる。
記録しておきたかった。Yではないけれど、いろいろ残念なことがあったとはいえ、はじめてのイスラミックワールドは、刺激に満ちていた。私は刺激をいっぱい受けて帰ってきた。
ひとつひとつの経験がどんな意味をもち、こののち、それらがどんな色彩に変容するのかしないのか、わからないけれど、記憶が薄れないうちに、ここに書きとめておきたかった。
人生は短いと思ったり長いと思ったり、そのときどきで変わる。短いにしても長いにしても、この年齢まで生きて、娘とトルコに行ったということは、当たり前のことではなく、特別なことなのだと心得ている。私の人生のひとつの事件なのだ。私はその事件をいまの精一杯で書き、のこしたかった。
おしまい。