▪️あがくことの意味と観覧車と誕生日
何かが動いていて、刺激が多い日々を送っている。いまは刺激よりも集中が欲しいのに。次の原稿の締め切りが近づいているのになかなか進まない。映画も観ているしお友だちとも会っているしタンゴも踊っている。けれど、原稿が進まないとすべてが失敗しているように思えてしまうが自分でもほんとに嫌。
そんななかメイ・サートンの『独り居の日記』の言葉を確認するために、本を開いたらまたしても読み耽ってしまった。アナイス・ニンの本もそういう意味で危険だけれどサートンも危険だ。
次の箇所に泣きたくなった。
ーー私は自分の仕事さえ、必ずしも信じることができない。でもこのところ、私はここでの苦闘の正当性を再び感じられるようになった。つまり、私が作家として「成功」しようとしまいと、そのあがきそのものには意味があること、神経の衰弱にせよ、気難しさからくる失敗にせよ、失敗さえも意味をもつと感じられるようになった。
次の箇所には、首がとんじゃうほどに頷きたくなった。
ーー本を「売ること」に関係することが、どうしてこれほど気持ちを動揺させるのだろう? 私のようなたちの作家が、どうしてこんな大仕掛けの機械を生きのびられるだろう?
サートン……ほんとにね、そのとおりですよ。
いま書いている本への想い入れが強ければ強いほど、もどかしさと才能の限界体力の限界気力の限界に絶望的になるけれど、でも書くしかない、というところに着地するからしかたない。
写真は26回目の記念日に送ったカード。人生は観覧車のよう。って、ポルトガルのことわざを続けて目にすることがあったから観覧車のカードを探したのだけど、人生は観覧車のようではないね、といったことを書いてしまった。私の人生観とは違うけど、なんて。
そんなに穏やかでも、決まった軌跡でもないよね。でも、疲れたときは、観覧車に乗った気分で、そこに身を委ねて景色を眺めるなんてのもありかもね……
カードを渡した日から19日が経つ昼下がり。