▪️松井冬子「懼怖(おそれ)の時代」とプレヴェール
親友に誘われて松井冬子の個展に出かけた。
いま苦しみながら執筆中の原稿のことと、いま私のなかでざわざわ騒ごうとする想いをかかえて土曜日の夕刻に。
ビルの三階、ナカジマアートの扉を開けた瞬間、異世界にいざなわれる。
しんとした空間、黒で覆われた部屋に、画家の作品が、なにかこちらを拒むように、そこにあった。
拒むように、というのは私が感じたことだ。
居住まいを正して出直してこい、と冷ややかに告げられているような、真正面から対峙する覚悟をもってその扉を開けなさい、とたしなめられているような。
すべては私自身の状態。
今回の展示に寄せた松井冬子の言葉を読む。何度も何度も読み返す。そこにあるものを受け取りたいと、居住まいを正して覚悟をもって読む。
展覧会のタイトルについての言葉を。
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「懼怖(おそれ)の時代」について
かつて私は「痛覚」を主題に制作を行なっていましたが、現在は「おそれる」という感覚により深く向き合っています。この「おそれる」とは、日常に潜む不安や緊張、さらには過剰な執着を象徴するものであり、しばしば現実世界を虚偽的なものとして認識させる要因にもなり得ます。このような感覚の変化を通じて、自らの制作や意識のステージが「痛覚の時代」から「懼怖(おそれ)の時代」へと移行したと感じています。
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「おそれ」に「懼怖(くふ)」をあてたのは、そこに何をこめたのだろう。
自らの意識のステージが「痛覚の時代」から「懼怖(おそれ)の時代」へ移行しているとはいったいどんな……
そんな想いで絵の前に立つ。絵のタイトルを読む。また絵を見る。
自身の内面からじわじわと、あるいは、ぐわっと出てきたであろうイメージが観る者に媚びることなく、冷徹な観察者のような眼差しで表現されている。
過去の作品も新作もあった。私はひとつひとつに、生真面目に打ちのめされていった。
本物だけがもつ力がそこにあった。画集でもパソコン画面でもなく、たった一枚の本物という意味と、「本物だ」と思うしかない、そういう本物という意味。
こらえていたのに、もうだめだ、この静かな画廊の小さな空間で、友人二人と一緒なのに、涙が出てしまう、となってしまったのは、『堕落なき美徳』の前に立ったときだった。
ああ、私はなんて遠いところにいるのだろう。そこでどうして生きてゆけているのだろう。もう決定的にだめなのかもしれない。
堕落なき美徳という六文字にすべてを塗りこめて表現するという、それを受けとってくれる人がいるという、そういう世界が、たしかにあって、私はそこで生きたいと願っていた。
私がつくっているものなんてくずだ。
そう思うのなら、それからあなたはどうするの。
人生のある時期、生きのびるために封印していたテーマだった。それが突きつけられてしまった。
体調がいまひとつだったし原稿のこともあったので、画廊を出たあと、二人で食事に行ってね、とひとり帰ってきた。
二人はメトロの入り口まで私を送ってくれて、別れ際、原稿ファイトです、と激励してくれた。メトロの階段を注意深く降りながら、ホームを歩きながら、日比谷線のなかでも、ずっとふらふらしていた。
帰宅して原稿に向かったけれど、あぶない、全てを消去したくなってしまう。
引用する言葉の確認で再読するつもりだった『プレヴェール詩集』(小笠原豊樹・訳)を開けば、そこにも本物があった。
一冊の詩集を眠くなるまで読んでいた。
古びた詩集。これをくださったKさんの消息を私は知らない。『女神 ミューズ』を世に出してくださった方だ。彼はいまの私を知ったらどんなことを言うだろう。
「サンギーヌ」など、好きな詩を噛みしめるように読む。昨夜は「鳥さしの歌」で涙の抑制が不可能になった。
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「鳥さしの歌」
とても静かに飛ぶ鳥
血のように赤くて暖かい鳥
とてもやさしい鳥 ひとをからかう鳥
だしぬけにこわがる鳥
だしぬけにぶつかる鳥
ほんとうは逃げたい鳥
孤独な狂った鳥
ほんとうは生きたい鳥
ほんとうは歌いたい鳥
ほんとうは叫びたい鳥
血のように赤くて暖かい鳥
とても静かに飛ぶ鳥
それはあなたの心だ 美しいひと
ひどく悲しげにあなたの心がはばたくのだ
こんなに重くて白いあなたの乳房の内側で。
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冷たい雨の日曜日。今日はたいせつな人の記念日。