ポルトガル&イタリア旅行記*5日目
2025/11/06
★9/29★明るいリスボン、トラムに乗ってテージョ川に挨拶、世界最古の書店を経て驚きのマッサージ、「2007事件」のち念願のファド
◾️リスボン、朝食のために28線トラムを半分で降りる
ようやく私の順番がまわってきた。今日はポルトガル初日。
イタリアはYの希望で回ったけれど「ポルトガルは好きなようにしていいからね、よろしくね」と旅立つ前にYから何度か念押しされていた。
つまりこれは「行きたいところへの行き方や、必要ならば事前にお店や列車の予約をしておいてね」という意味。
旅立ち前、私は自作の本の企画やらリサーチやらアルゼンチンタンゴやらで忙しくしていたけれど、時間を作ってはポルトガル関連の映画を観なおしたり、本を読んだりしていた。
そして行きたいところをGoogleMapにメモつきで保存して、私としてはわりと入念に準備して臨んだのだった。
あの書店に行って、あの館に行って、あそこで美しいアズレージョ(ポルトガルの青と白が美しいタイル)を見て、そしてそしてあのお店でファド(ポルトガルの民族歌謡)を聴く。
けれど、ミラノから始まった今回の旅行、1日目の夕刻あたりから、すでに後悔し始めていた。
旅程を逆にすればよかった。ポルトガルから始めてイタリアにすべきだった。
後半になったら疲れがたまって、あらゆることがゆるくなってしまいそうだったからだ。
なんたってYとの年齢差は32歳。
その彼女とまったく同じ動きをしているのだから無理もない、といま自分を慰めたい。
さて、そんなこんなで、ポルトガル、リスボンの朝を迎えたわけだが、リスボンは晴天で、私は自分がリーダーとなったことへの責任感と高揚感で、おそらくアドレナリンが出ていた。
無機質なホテルの部屋で支度をしながらYが尋ねた。
「朝食の場所はきっと決めてないよね、かわいいお店に行っていい?」
Yが行きたいお店は私が行きたい場所が集まっているバイシャ地区にあった。もちろんいいよ、と答える。
「まずはリスボンの街並みをぐるりと回れるトラム(路面電車)に乗るよ。28番線ね。乗り場まではタクシーでちょっとだから」
ちゃんと調べてきてることを、さりげなくアピールする。
けれど、トラム乗り場で待っている間、そこに掲げられている路線図を眺めていたYが不安そうに言った。
「ねえ、すごい量の駅があるよ」
「終点まで30分くらいでしょ」
「いや、この量だと1時間はかかるでしょ」
「あ。そうだったかも」と呑気に答えた私にYはうったえた。
「おなかすいて死んじゃうよー、血糖値低下により倒れちゃうよー」
それからiPhoneを取り出して、なにやらリサーチを開始した。
結果、これから乗るトラムの半分くらいのところの停車場で降りれば、お目当てのお店がすぐ近くだから、ということで、終点まで行かずに半分くらいのところで降りよう、ということになった。
トラムにはクレカタッチで乗れるんだよ、と私は事前リサーチの成果をアピール。
事前にチケットを買わなくていいというのは、ほんとうに楽だと思う。クレジットカードをタッチするだけなんてね。
私たちは始点から乗ったので余裕で座れたけれど、停車場に停まるたびに人が乗ってきた。このトラムは観光客にも人気だから混むとは聞いていたけれど、乗りこんできているのは地元の人たちばかりのように見えた。
ガタゴトガタゴト……トラムは街なかを走り、30分くらいのところで私たちはトラムを降りて、Yのお目当てのお店で朝食をとった。
「Hygge Kaffe Baixa ヒュッゲ カフェ バイシャ」。ヒュッゲは「居心地がよい」というデンマーク語なのでデンマーク発なのか。
さわやかな店内、店員さんが運ぶプレートはどんな種類のものであっても、ものすごい量だった。
なので私はYにシェアを希望。あまりおなかが空いていなくてコーヒーだけでもよいかんじだったから。
「えー、ぜったい足りないよー」と言っていたYだが、中盤くらいから「よかったね、ワンプレートにして」と言っていた。
◾️明るいコメルシオ広場、どこまでも青いテージョ川
おいしい朝食をとって、そこから歩いて10分くらいのコメルシオ広場へ。
リスボンに着いたらまずはコメルシオ広場に行って「リスボンに来ましたよ」ってリスボンに挨拶をして、それからテージョ川にも「よろしくね」って挨拶をするのです。
前情報でそんなのを得ていたからその通りにしてみた。
そしてリスボンは暑くて、イタリアが冬の香りがする秋だとすれば、リスボンは夏の終わり。
そして広大なコメルシオ広場は日陰が皆無。
サングラス売りの人が何人かうろうろしているのもよくわかる。
私たちはミラノでアナ・ウィンターごっこをするために買ったサングラスを、ただただ強い日差しから目を守るためだけに、奪い合った。ではなく、譲り合って交代でかけた。
それだけではない。美肌のために私たちは日焼け止めを首や腕に塗りたくった。背面はそれぞれに塗りたくるという思いやりに満ちた行為までした。
そして広場の先に広がるのは、まるで海のテージョ川。雲ひとつない真っ青な空、強い日差し、真っ青な海のような川。
なんて明るく爽やかなのだろう。
そのとき私は「リスボンに来ましたー。嬉しい!」なんて、Yが撮る動画に向かって叫んだくらいはしゃいでいたので、ぱっぱらぱあだったけれど、いま思えば、リスボンに挨拶をしたこの明るく爽やかな瞬間、私が思い描いていた、想像していた、夢想していた、勝手に妄想していた、郷愁や哀愁漂うポルトガルのイメージは、ぱあっと青空に飛び立って行ったのだった。
◾️1冊の本とポルトガルの「サウダーデ」、ハンカチ伝説
この飛び立って行ったポルトガルのイメージ、これは私がずっと長い間いだいていたものだったけれど、旅行前に念押しのように、私のそのイメージを強めた一冊の本があった。
その本とは、友人との待ち合わせまでちょっと時間があったから立ち寄った恵比寿の有隣堂で出会った。
目立たないかたちで一冊だけ棚差しされていた。
『リスボン日和』というタイトルに惹かれて手に取って、なかをぱらぱらっと眺めたら、文学の香りがあったものだから即購入。
作者は韓国の作家イム・キョンソン。私より6歳年下の彼女が2019年(だから47歳のときということになるだろうか)に発表した作品。
10歳のときに父親の仕事の関係で1年だけ住んだリスボンに、10歳のひとり娘を連れて12日間滞在する。
すでに他界している両親との思い出とともに、懐かしいリスボンの街を、娘とともに歩くという旅行記。
この本に出てくる場所は私が行きたいところとほぼかぶっていて、この作家と話をしたい心持ちになった。
知らないことももちろんたくさんあって、今回の旅の参考にもなった。
ただ、彼女が想いをこめて綴っている箇所はなるべく飛ばすようにして読んだ。影響されすぎたくなかったからだ。
私は私の視線で街を眺めたい。
私のポルトガルへのイメージを強めた、その象徴的なところを引用する。
ーーーボルトガル語の歌詞でもっともよく出てくる単語はおそらく「サウダーデ saudade」ではないだろうか。サウダーデはポルトガル人を象徴する代表的な情緒であるが、ある国固有の特性を、大概、別の国の言葉で明瞭に翻訳するのが難しいように、サウダーデも翻訳するのにぴったりと当てはまる単語がない。思慕、郷愁、哀愁、追憶、渇望、このすべてを合わせた何か。誰かが自分のそばから去ったあとに感じる、もう決して会うことのできない恋しさだけでなく、自分の内部にとどまって何度も繰り返しかみしめる甘美な愛の感情と、そこからにじみ出る切ない哀しみ。喪失の苦痛は辛いものだろうが、サウダーデとともにあるのであれば、胸につかえた何かはそっと慰められることだろう。ーーー
(略)
ーーー哀しいサウダーデの魂はポルトガルの民衆歌謡、ファドに凝縮されて発散される。ーー
じゅうぶんすぎるほどに影響されてしまっていたと思う。
ポルトガル旅行前というのを抜きにしても好きな1冊となった。作者はもちろん、これを翻訳したいと思い出版を実現させてくれた訳者の熊本勉さんにもお礼を言いたいくらい。『やさしい救い』という原書のタイトルを、リスボンのことを書いた本だとわかりやすいようにしてくれこともありがたい。『リスボン日和」と、リスボンの名がなかったなら出会えなかった本だろうから。タイトルは重要だ。ほんとうに重要だ。もう何度も血が出るくらいに痛感している。
さて。
「ポルトガル、こんなイメージだったんだけどなあ」はこのくらいにして現実に戻ろう。
コメルシオ広場で直射日光をぎんぎんに浴びてから、広場から北のバイシャ地区、リスボン観光の中心地を私たちは練り歩いた。
このあたりに私がチェックしていた、訪れてみたいお店が集中していた。ぷらぷら歩いていればチェックしていたお店がある、といったイメージ。
最初に入ったのはアウグスタ通りにある「Arte Rustica アルテ・ルスティカ」。ポルトガル産の民芸品店だ。
1階も地階も広々としていて、食器やら布製品やらさまざまな民芸品があった。
地階に行こうとしたとき壁に「目」があって、ぎょっとしていた。目の下に「ここには監視カメラがあるんだからね」と書かれていたけれど、そんな言葉はなくてもあの目だけで充分な脅しになるだろうと思われた。
「見られている」ということが人に与える強い抑止力を感じた瞬間だったので、つい写真に撮ってしまった。
私はポルトガルの「ハンカチ伝説」について『ポルトガル日和』で学んでいたので、ハンカチを買おうと思ったけれど、気に入ったものがなかったので買わなかった。
ハンカチ伝説とはざっくりこんなかんじ。
それはポルトガル北部ミーニョMinho地方で17世紀に始まったと言われる。
若い女性がハンカチに絵やメッセージを刺繍して愛する男性にプレゼントするという風習だ。男性が好きな女性に「私のためにハンカチをつくってくれませんか」といったかたちで愛を告白することもある。
どちらにしても、そのハンカチで胸ポケットや帽子を飾ったり首に巻いたりすることでふたりの交際を公表した。別れるときには返すこともあった。たいていは愛を確かめ合ったのち作られたが、片思いの告白に使わることもあった。
この伝説のことを知ったとき、まるで私のセーターだと思った。
10代の終わりから20代半ばにかけて、いったい私は何枚のセーターを編んだことだろう。時間をかけて編んだセーターたちのことを想った。彼らはどんなふうに捨てたのだろう。
ポルトガルの民芸品店で私は打ち捨てられたセーターたちに想いを馳せていた。
◾️オリーブオイルと日本の伝統文化研究者
次に入ったお店は「メイア・ドゥジア meia-duzia」。
事前チェックはしていなかったけれど、店内に絵の具のチューブのようものがずらりと並んでいるのが見えたので、入ってみたのだ。
それらは絵の具ではなかった。ジャムやペーストが絵の具のチューブみたいなのに入っているのだった。それから細長い瓶につめられたたくさんの種類のオリーブオイルが。
お店の男性はとってもフレンドリーで、そしてとても日本語が上手だった。かなり。「お上手ですね」といったら「いえ、まだまだですよ」と答えた、その答え方がネイティブだった。
試食できるので、いくつかのオリーブオイルを試した。パンにつけてくれるのだけれど、私たちはお腹いっぱいだったので、二つ目からは小さなスプーンで直接くださいな、とリクエスト。
とてもおいしく感じられたので、買うことに。ガーリックのをひとつ、バジルのをひとつ。3つ買うとケースに入れてくれるので、すかさずYがチョコレートのチューブをもってくる。
支払いをしているときに、彼になぜ日本語がそんなに上手なのかと尋ねた。
彼は言った。日本の伝統文化が好きで、イギリスのケンブリッジ(オックスフォードだったかな、どちらかだったと思う)大学でそれらを研究していたのだと。まだまだ勉強途中です、と。
穏やかに話す彼が好ましくて、あまりしないことをしてしまった。一緒に写真、いいですか? とお店の袋を掲げてふたりでにっこりポーズなんてことを。
お店を出て、いい買い物ができてよかったね、と私はYに言った。
Yはうんうん、とうなずいて言った。
「イギリスの大学で日本の文化を研究して、あんなに流暢に日本語を話せるほどの彼が、なぜあそこにいるのか、知りたいよね」
それから私たちはあれこれと、イギリスの大学からあの店舗に至るまでの彼の人生を想像してはそれらを披露しあった。
こういうときよく思うのは、人が想像できるのは、自分が知っていることだけ、ということだ。当たり前か。そして自分に寄せて想像する。
私はこんなふうに言った。
「夢破れたのかも。自分の実力の限界みたいなのにぶちあたって、それで教授とか研究者は諦めて、あのように働きながら自分が好きなこととしてひそかに研究をしてるのかも」
Yはこんなふうに言った。
「研究は好きだけれど儲からない、って割り切っているのかも。だから研究は続けているけれど事業は別ってかんじで、もしかしたら何店舗かあるらしいあのお店の経営者かもよ。やり手かも。それで今日のあの時間は、たまたまお店に顔出していたのかも」
◾️世界最古の書店での軽薄なふるまいとペソア
そんな話をしながら次に向かったのは、今回のリスボンで2番目に行きたいと思っていた「ベルトラン書店 Livraria Bertrand 」。
ギネス認定の、世界でもっとも古い書店だ。1732年創業。日本は江戸時代中期。享保の大飢饉が起こった年だ。
300年近く続いている書店は、派手な看板などはなく、入り口も狭いので知らなければ通り過ぎてしまいそう。
中に入って、歴史ある書店をひとまわりして、それから私はバッグに隠しもっていた自分の本を2冊こっそりと取り出した。『私を救った言葉たち』と『愛をめぐる言葉たち』。Yがイタリアのポルトフィーノで撮るためにスーツケースに入れて運んだものだ。雨で断念したから撮影は叶わず。ここで日の目を見せようと思ったのだった。
設定は「世界最古のリスボンのベルトラン書店になぜか日本のひとり出版社ブルーモーメントから刊行された日本語の本が2冊あって、それを買おうって胸にかかえたお客さん」。
のちにその写真を見せた何人かに、意味不明、と非難されることになる写真ね。
この書店で私は1冊の本を買った。ペソアの詩集、日本語訳のを見つけたからだ。
ポルトガルに行くならペソアをちゃんと読んでおこうと、フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』をAmazonで購入していた。繰り返す引越しのなかでペソアの本がどこかにいってしまっていたからだ。
ペソアは「すごく好きというわけではないけれどなぜか好き」なのだった。
フェルナンド・ペソア Fernando Pessoa(1888 - 1935)。ポルトガルの国民的作家。
生前はちょっとした文学活動はしたもののほぼ無名で、貿易会社でビジネスレターを書くことで生計をたて、規則的な生活をしていた。47歳で亡くなったのち、トランクいっぱいの2万7千枚以上もの膨大な遺稿が発見されて伝説となった人だ。
彼の熱狂的なファンは文学者にも多い。
ペソアの特異なところは70を超える「異名」をもつこと。
つまり、ペソアが残した作品は数多いのだけれど、これはA名義、これはB名義といったふうに、作者の名が異なっている。そしてその作者それぞれの経歴や性質、年齢を設定して、それに合った文体で作品を書いたのだから驚く。
そして私はちょっと共感もする。そんな書き方をしたらどんなに刺激的だろうかと。『軽井沢夫人』を書いたときも似た楽しみがあったなあと。
ペソアはポルトガルを、なかでもリスボンを強く愛していた。
作品のなかにも驚くほどのリスボン愛があふれている。
だからリスボンはペソアを最大限に活用しているようだ。
観光客用にペソアの外見がデザインされたTシャツやマグカップなどの雑貨が売られているし、老舗の「カフェ・ア・ブラジレイラ Cafe A Brasileira」の前には、ペソアが常連だったということでペソアの銅像がある。前を通ったけれど、銅像と写真をとる観光客が列をなしていたので、なんだかうんざりしてそのまま通り過ぎた。
ペソアがおもに通っていたカフェ・レストランは「マルティーニョ・ダ・アルカーダ Martinho de Arcada」だもんね。
ペソアがいつも座っていた4人用のテーブル「ペソアのテーブル」があるって。1782創業の老舗で、当時の知識人や芸術家のたまり場だったって。パリのモンパルナスのヴァヴァン交差点にある「ドーム」や「ロトンド」みたいな雰囲気なのかな。
私はこのカフェに行くのを楽しみにしていた。コメルシオ広場のアーケードにあるので、昼下がりに戻って軽くランチをしようね、ということになっていた。
観光客が群がるペソアの銅像を過ぎてすぐのところにある、美しい書店として有名な古書店「コスタ書店 Livraia Sa da Costa」にも立ち寄った。
アンティークやら重そうな専門書がところせましと並べられている店内をひと回りした。入り口のところに、ここにもペソアのTシャツが売られていた。
店を出てYに感想を尋ねると「美しさの定義の問題だよね」と言った。
◾️驚愕の男性マッサージと「ナタ」とくちばしの家とZ世代の倉庫
午後の1時ころだったと思う。
「どうする? お腹空いてきた? 広場に戻ってペソアのカフェに行く?」とYが尋ねた。
まだ空腹ではなかった。けれどどこかで休みたかった。
認めたくないけれど、午後の1時、まだこれからだというのに、私はひどく疲れていた。
でも今日はがんばらないと、今日だけは!
なぜなら今夜はファドを聴きに行くのだから。
旅立ちの1週間ほど前にすでに予約をしていた。夜の8時半。コースの食事にファド。ファドが始まるのはおそらく夜の10時過ぎだろう。
今夜は夜更かしの日、そしてポルトガルで私がもっとも楽しみにしていた、もっとも重要なこととしていた一夜が今夜なのだった。
「ちょっと疲れちゃった」と私は言った。
すかさずYが「いまこそじゃない?」と瞳をきらめかせて迫る。
イタリアでも何度か「あー、マッサージに行きたいなあ」と言っていたYは、日本にいるときも私よりずっとマッサージへの依存度が高い。
けれどイタリアではしたいことがたくさんあったからマッサージどころではなかったのだろう。
しかしながらここは、Yにとってへはおまけのポルトガルだ。しかも疲れたという同行者がここに。
というわけで、近くのタイマッサージ店へ。
そこで私はタイ式マッサージを、Yはオイルマッサージを頼んだ。同室を希望したので、私はマッサージ用の上下に着替えて、Yは裸になってタオルをかけて、スタッフの人を待った。
入ってきたのは、ほんとうにびっくりしたことに、男性2名だった。私はいいけど、Yはオイルマッサージだよ?
でも背面だけだからいいのかな。
「違和感あったらすぐに言ってよ」と、もしかしたらわかってしまうかもしれない日本語で私はYに声をかけた。
久しぶり(私は)のマッサージは気持ちよく、とても上手な人で癒された。Yもとても上手でよかったと満足そうだったからよかった。
私はそれでもなんだか落ち着かなかった。オイルマッサージは女性の人でお願いします、と言えばよかったといまも思っている。考えれば考えるほどになんだかとてもいやだ。
さて。
ほんとうなら、すっきりした体で、遅めのランチをとる予定だったペソアのカフェに行くべきだったのだが、なぜだろう「行かなくてもいい」と私はYに言っていた。
これからあそこまで歩いて戻って、食欲がそれほどないのにレストランで何かを食べて、ペソアが座っていたテーブルを眺めて……といったことがそれほどしたいことではなくなっていたのだ。
そんなこともあるし、それが悪いわけではない。
「しないことにも何か意味があるんだよ」
と私はYに言った。
「それ、よく言うセリフだよね」とYは笑って、私たちはその場にたまたまあった雰囲気の良さそうなカフェ、通りの真ん中にテラス席のあるカフェに入った。
「それほどお腹が空いていないし、今夜はコース料理でしょう? せっかくのポルトガルだしナタにしよう」とYは3種のナタと抹茶ラテを。私はサングリアをオーダー。
ナタとはリスボンの修道院発祥と言われている、日本でいう「エッグタルト」だ。スイーツなので本来ならYが騒ぐところだけれど日本にいるときから「エッグタルトはそんなに好きじゃないんだよね」と言っていたのだった。
3種のナタをちびちびと食べながら、今夜のファドのために体力を温存しなければならないから一度ホテルに戻ろう、と話し合った。
それにしてもまだ3時半だからね、なんだかもったいないと思ってしまう。
Yが言った。
「だったらちょっと興味のあるところに行っていい? タクシーですぐだから疲れないんじゃない?」
Yが提案したのは「エルエックス・ファクトリー LX factory」
リスボン市のテコ入れで古い工場跡地、倉庫をリノベーションした、最先端のアートやファッション、レストランなどが集まった複合施設だ。
「リスボンの最先端、流行に敏感なZ世代のたまり場だって。ちょっと興味ない?」
「うん、いいよ。でもそこ行くなら、途中、くちばしの家に寄りたい」と私は言った。謎の欲が出たのだった。
「くちばしの家」とは前面が尖った石で装飾されているから、そんなふうに呼ばれている16世紀の歴史的建築物。
体力温存時に、それだけだったらわざわざ行かないが、この建物、現在はジョゼ・サラマーゴ Jose Saramago(1922-2010)財団が運営していて、サラマーゴの資料館もあるという。
サラマーゴはポルトガル語圏唯一のノーベル賞作家。
旅行までに『白の闇』を読み切ることができなかったけれど、その本のなかの一文「死に立ち向かうことのできる唯一の方法は愛である。One only defense against death is love.」が胸に響いていたので、ちょっとふれたいなとは思っていたのだった。
なので、くちばしの家で、なんとなくサラマーゴにふれたような感覚になって、それからタクシーでZ世代のたまり場的スポットへ。
なんだか女子美の文化祭を思い出すね、懐かしいね、あの時代は楽しかったなあ、それにしてもリスボンもたいへんなんだなあ、観光の引きをつくるのに必死なんだなあ……なんて会話を交わして、タクシーでホテルに戻ったのは18時を少し回ったころだっただろうか。
「8時半の予約だから、ここからタクシーで行って、ちょっと迷うことを想定しても……、7時半に起きれば余裕だね。まあ、眠らなくても横になるだけでも体は休まるから」と言いながらYはちゃんとふとんに入った。そしてすぐに眠ってしまった。
私はこのときYがアラームをセットしたと思いこんだ。
◾️「2007」事件ののちアルファマ地区の老舗でファドを聴く
私はきっと眠れない。でもYが言うように体だけでも休めておこう。
ベッドに横になってイヤフォンでファドを聴こう。ドゥルス・ポンテスを。
「きみ、ファドを聴きなさい。ドゥルス・ポンテスなんかどうかな、好きだと思うよ」と私にファドをすすめたのは中田耕治先生だった。もう20年くらい前のことだ。
ファドの女王アマリア・ロドリゲスではなくドゥルス・ポンテスの名を出したのはなぜだったのか。
ドゥルス・ポンテスは私より3歳年下の歌手だから、私がはじめて彼女の歌を聴いたときにはまだまだ若かった。それなのに、何年人生をやってきたんだろう、と思うほどの重さと陰影があった。いまはさらにそれが増している。
私は彼女の歌を聴きながら、いまは亡き中田先生に語りかけた。私、リスボンに来ています。今夜、ファドを聴きに行きます。
アルゼンチンにタンゴがあるように、フランスにシャンソンがあるように、イタリアにカンツォーネがあるように、ポルトガルにはファドがある。前述したようにファドはポルトガルの「サウダーデ」そのもの。
なんたって、ファド Fado は「宿命」を意味するラテン語「fatum」に由来している。
「宿命」ですよ。
ここ10年ほどはアルゼンチンタンゴばかりで、そしてタンゴの歌詞の世界は男が女にふられてやけになっていたり未練たらたらだったり、人生に疲れていたりするのが多いのだが、つまりけっして明るくはないのだが、ファドも負けていない。もちろん暗いだけではないのだけれど……でも、聴く時と場を選ぶ音楽ではあると思う……私にとっては……なんだかみょうにつらくなってきて聴けないときもある…….…ぐぅ
……そしておそらく2時間近くが経過。
目が覚めたとき「ここはどこ私は誰」状態だった。
ハッとしてiPhoneを見る。20:07という数字が目に入る。あれ?
私は隣のベッドで動かないYに「ねえねえ」と声をかけた。「8時すぎてる」
瞬間、Yが文字通り飛び起きた。
「急ごう、5分で出るよ。Uber呼ぶね!」
ほんとにいままで眠っていたの?
と疑いたくなるような素早さだ。目は充血しているが。声も寝起きのものだが。
「レストランだしヨーロッパだし、ちょっとくらい遅れても大丈夫だよ」と私は言った。
Yはバッグを肩にかけて靴をはきながら早口で言った。
「迷うことも考慮にいれないと。今日は大事な夜なんでしょ」
その通りです。
前情報では「迷う」とあったお店だったのでちょっと心配だったけれど、タクシーを降りた広場からすぐのところに目的のお店はあった。なので予約時間ジャストに到着。
ファドが聴けるレストランのことを「カーサ・デ・ファド」という。
私が予約したのは「パレイニーニャ・デ・アルファマ Parreirinha de Alfama」で、ファドの故郷はアルファマ地区なのだが、そのアルファマ地区でも最も古いカーサ・デ・ファド。
観光客用の豪華なものではなくて、ファドの伝説的ファディスタ(ファド歌手)のアルジェンティーナ・サントスが始めた店で、もう70年以上もの間、脈々とファドを聴かせ続けてきた老舗だ。
縦に長く天井が低い店内は、ぎゅうぎゅうに席があり、30人近い人たちがいただろうか、もっと少なかったかな、満席だった。私たちが最後の客だったようで、真ん中あたりのテーブルに案内された。
「たぶんここで演奏だろうから、私がこっちに座るね」とYが席を選ぶ。
ステージはなくて、お店の中央部分にやや空間があるからそこが舞台なのだろう。マイクや音響のためのあれこれはない。
コース料理が落ち着き始めた22時近くだっただろうか、ギタリストでもある店主の男性がその空間で、しずかにギターをつまびき始めた。
1曲弾き終えると、彼が挨拶を始めた。これは本で読んで知っていた。
彼はファドを聴くときにいかに「沈黙」がたいせつなのかを語っているのだった。会話、携帯電話の音、カメラの音、フラッシュがあると雰囲気が壊れてしまうということを。
ファドの三大要素は「歌手、伴奏者、観客の沈黙」と言われている。観客である私たちもファドのたいせつな要素なのだ。
なんて好みなのだろう。みんなが携帯をしまって聴くだなんて。
と思っていたのだった。
ところが、どうやら現在は音を出さない撮影は許可されているようだった。講演の最中、何人かの観客が写真や動画を撮っていた。その光景が私はとても嫌だった。気にしなければいいのだけど気にしないでいられるなら、人生、もっと楽なのだ。
演奏に、歌に集中しようと思いつつも、気になって苛ついてしかたがなかった。なぜ完全なる沈黙でのぞまないのか。なぜ、いまこの瞬間に集中しないのか。
休憩をはさんで3ステージがあった。3人の歌手が一人ずつ歌って、最後は3人で歌うという、そういうステージだった。休憩の間に食事をする。
私が影響を受けたイム・キョンソンの『リスボン日和』では、このお店のこと、店主の男性のこと、そしてファド体験が、ものすごく濃厚に語られていた。影響を受けすぎないように、読みこみすぎないように流し読みをしたつもりが、すっかり影響を受けていた。
だからとても期待をしてしまっていた。
期待値が高すぎたのかもしれない。私の感受性が鈍いのかもしれない。
感涙してしまうかも……、なんて心配していたポルトガルのメインイベントのファドで私は落涙しなかった。
ステージが終わり、出口のところで会計をした。「ここにチップの額を入れてからカードを差しこんで」とギタリストの店主の男性が言った。
出口では最後に歌ったファディスタがCDを売っていた。
私たちはUberを呼んでホテルに帰った。
「どうだった?」とYが尋ねた。
「うん、経験できてよかったよ。つきあってくれてありがとう。横向きで聴かなきゃいけないし、目立つ席だからたいへんだったでしょう。どうだった? 退屈だった?」
「よくわからないってかんじだった。歌詞もわからないしね。ここにいる人たちのいったい何人が心から感動しているんだろう、ってそんなことを考えていたよ。あと、あのギタリストの人が会計をするときの雰囲気と、最後の歌手の人がCDを売っている姿に夢から覚める、っていうか、スン、ってなっちゃった」
わかるように思う。
そしておそらく私はただ、あの場の空気に共鳴しなかったのだろう。何が悪いとかの問題ではなく、ただ共鳴しなかった。
どんなにすばらしい音楽でもどんなにすばらしい演者でも、そういうことは起こる、というか共鳴することのほうが少ない。一流のものにふれたってそうだ。
ずっと前、スペインでフラメンコを観たとき、それは観光客向けのところだったと思うけれど、私はひとりの女性ダンサーの熱に圧倒されて、自分にないものを眼前に突き出されたようで、ひどく胸があばれて、ぼろぼろ泣いたものだった。共鳴だ。
今回はそれが私に起こらなかったということだけなのだろう。
「それにしても寝過ごしたときは焦ったよね」とYが言った。
「そんなことがあるんだね。よかったよ目覚めたのが10時とかじゃなくて」
「そしたら絶望だよね」
「目覚ましかけたと思いこんでいたからね」
「私のせいかい」
「いや、私も寝落ちしたときのために、念のために、アラームをセットすべきだった」
「それにしてもね」
「20:07の数字を見たときには目を疑ったよ」
「2007事件と呼ぼう」
「そうしましょう」
「それから、むこう1年はオクトパス食べなくてもいいや」とYは言った。
たしかにあれはすごい量のタコだったよよね。
すごかったよね。
これでもか、ってかんじでね。
夢に出てきそうじゃない?
うなされそうだよね。
それ、やだね。
でもおいしかったね。
おやすみ。
ポルトガル、リスボン初日、メイインイベントのファド体験はタコ話で終わった。

















