ブログ「言葉美術館」

◾️ポルトガル&イタリア旅行記*6日目

2025/10/14

★9/30★ポルトでの1日。サン・ベント駅のアズレージョ、「ガロ」伝説を経て「びみょうだよね」とYが言う

◾️リスボン・オリエンテ駅からポルトへ

 私のためのポルトガル。2日目は迷っていた。

 第1候補はリスボンから列車でポルトへ。片道3時間の往復6時間。ポルトでのお目当てはアズレージョ(ポルトガルの青と白のタイルでなされた装飾壁画)。これは実際に見てみたいという美しいアズレージョがポルトに2箇所あった。

 第2候補はリスボンから列車でシントラへ。片道1時間。都市そのものが世界遺産に指定されている。ポルトガル旅行にそなえて近年映画館で観た『ポルトガル、夏の終わり』を私は観なおしていた。イザベル・ユペール主演の、観たのちに、じわじわと沁みる作品なのだが、この舞台がシントラなのだった。

 ポルトよりもシントラのほうが近くて、移動に時間をとられないし。映画の影響もあったし、旅立ちの3日くらい前まではシントラにしようと思っていた。
 けれど、ネットで調べてもシントラをどのように回ったらよいのか、どうもイメージできない。
 このまま行ったらYの怒りを招いてしまう。

 ところで私は旅行前にYouTube等の動画サイトで、知らない人が行った旅行動画を見ることを避けている。楽しみが9割減ってしまうような、そんな気になるからだ。

 けれど、シントラはあまりに謎だったので禁忌を侵してしまった。

 結果、神秘の都市シントラへの興味が失われた。
『ポルトガル、夏の終わり』のシントラもたしかに観光地だったけれど、動画で見たシントラは、とってもファンシーでとっても巨大な遊園地のようだった。見た動画がいけなかったのかもしれない。いや、やはり動画を見るのはよくない。知らない人の旅の動画には、知らない人が見た世界しかない。同じシントラでも私が作る旅動画はまったく違うものになるのだから。
 そしていだいてしまったイメージはなかなか拭えない。
 何日もあるうちの1日だったら行くのもよいけれど、ポルトかシントラか、という選択ならば、やはり……。

 ということで、ちょっと遠いけど、滞在時間は短いけど、列車の移動も楽しむことにしてポルトに行きましょう。そういうことになっていた。
 けれど旅行も終わり近くという日だ。疲れていて「やっぱり行かない」と思ってしまう可能性もある。だから列車の予約はしないでおこう。ということでふたりの合意があった。

 前夜ファドが終わったのが23時過ぎ、就寝は遅かったけれど、私たちは朝7時、ほぼ同時に目覚めた。

「今日はどうする?」とYが尋ねた。「ポルト行く? リスボンを散策する?」

 私は迷わず言っていた。
「ポルトに行こう」
 やはりサン・ベント駅のアズレージョの誘惑は大きかった。

 行くんかーい、と声をあげたあと「じゃあ、予約しないとね」とYが言った。

 まかせてちょうだい、ちゃんとアプリをダウンロードしてきたから、と私はポルトガル国鉄鉄道CPのアプリを開いて、予約を試みるが、なんだかうまくいかない。

 Yがいじるけどうまくいかない。「別のサイトから試してみる」ということで結局Yが予約することになった。9時半くらいのに乗れればいいね、なんていいながら予約を試みるが、全席指定の列車は11時半まで空きがなかった。

「それでも行く? 滞在時間は3時間とか4時間になるけど、それでも?」と尋ねたYに私は言った。

「うん。昨日リスボンの街を歩いて、なんだか違う景色が見たいから」

 11時半の列車を予約して、のんびり支度をして、ポルト行きの列車が出るオリエンテ駅で朝食をとることにした。

「近代的なオリエンテ駅」と言われているけれど、私たちには暗くて居心地が悪かった。なので隣接しているショッピングモールに行った。どのお店にするか、ぐるぐると迷って(Yが)、オープンスペースにあるごく普通のカフェに入った。

 Yはこういうとき、ほんとうによく考える、というか時間をかけて迷っている。いつだったか言っていた。食べるのが好きなのにそんなにたくさん食べられないから、何を口にするかはとても重要な問題なのだと。

「このサンドイッチにする、おいしそう」と言ってYがオーダーしたとき、お店のおじさまは言った。
「これ全部でいいのかい? ハーフじゃなくていいのかい?」
 期間限定の特別メニューらしく、サンドイッチの写真の上に大きく「XL」という文字が横切っている。
 お腹が空いていたからか、Yはまさかのうなずきを。
 けれど私がオーダーしたソーセージパンみたいなのが、あまりにもクセがあって、ほとんど食べられなかったので、Yのを半分もらうことになり「ほらね、ハーフにしなくてよかったでしょ」ということになったのだった。どうでもいい話すぎる。

お店のおじさまに確認されたXL、これが二つある

 

◾️旅行中、体調最悪の数時間、カフェで不機嫌になる

 ゆっくり過ごして11時半発の列車に乗った。
 2時間半でポルトに着くのと3時間ちょっとかかる列車とがあり、11時半発のは後者だった。座席も1等と2等があるのだが、1等はいっぱいで2等しか空いていなかった。

 4人用のボックス席、私とYは横並びで座って、前にも2人お客さんがいて、そして座席の間は狭くて、背もたれも倒すことができずに、直角姿勢で、そして背面が進行方向という、そのような状況で3時間ちょっとを過ごした。

 眠れれば楽なのだが眠れず、なにやら気分が悪くなってきたのがあと1時間でポルト、というころ。

眠ってはいない。ダウンしているのです

 

 ポルトのカンパニャン駅についたころ、私の意識は朦朧としていた。
 座りこむほどではないし吐き気があるとかでもない。ただ頭と体に鉛が入りこんだようになって、そしてパニックの発作にも襲われていた。Yを心配させたくなくてこっそりと薬を飲んでいたけれど、どよーん、は治らない。

 だいじょーぶー? 

 とYが何度か尋ねたけれど、歩けるには歩けるので「うん、大丈夫だよ」と答える。しかし笑顔は作れない。表情筋がなくなってる。

 駅からタクシーで繁華街まで行き、チーズ好きのYのために、ポルト最古のチーズ店に向かうが、イメージと違う。「ここ入らなくてもいいや」とYが素通りし私も続く。

 歩き出してまもなくYが立ち止まって言った。
「ちょっと休んだほうがいいんじゃない?」
 私はマリオネットのようにうなずいた。

「ちょうど近くに行きたがっていたカフェがあるよ、そこに行こう」
 Yが地図を見ながら言い、私はまたうなずき、Yの後ろを歩いた。

 お目当てのカフェには並ぶことなく入れた。けれどなぜだろう、私たちの席の周りはアジア人ばかりだった。フィレンツェを思い出す。

「ここでもアジア人席なのかな」と言ったYに「……ったくね」と品のない返事をしてしまうのは体調不良により機嫌が悪いからだ。
 だめじゃないの。「不機嫌は環境破壊」だって、そんなことを本に書いているのに、だめじゃないの。ごめんねY。

座った瞬間から機嫌が悪い

 

 大きめの前菜プレートみたいなのがあったので、それをシェアすることにして、私はポルトに来たのだからとポートワインを、Yはオレンジジュースを、そしてデザートとしてパフェみたいなアイスクリームをオーダーした。

 私たちの席の担当の男性は、いま思い出しても、もうすごく嫌いです、って言いたいほどの態度で私たちに接した。私は尋ねたかった。
 いったいあなたに何があったのですか? 何があって、そしてどんな理由で私たちをこんなに不快にするのですか? 

 そんなことを言ったら命を奪われそうだったので、もちろん言わない。

 アイスクリームが運ばれてきた。デザートのつもりだったけれど、言わなかった私たちが悪いのね。私たちのせいなのね。けれどそのアイスクリームの下半分がほぼ溶けていたのは私たちのせいではない。

「えー、最初にアイスかー、しかもこんなに溶けちゃってる」
 Yはとても残念そうだ。るんるんとオーダーしていたのに気の毒すぎる。

 私はおなかの調子が悪いわけではないからワインでも飲んで元気を出そうと思ったのだが、アルコールは何の作用ももたらさなかった。そして前菜プレートも。すべてがびっくりするほど高額だったので、品がなくてよ、いけないわ、と思いながらも舌打ち気分。

 残念すぎる。このカフェは楽しみにしていたのに。

 ここはポルトガルの映画監督マノエル・ド・オリヴェイラが若き日に好んで通ったカフェ。芸術家たちのたまり場だったところだ。オリヴェイラ監督。106歳まで生きて、亡くなる直前まで映画を撮っていた。『永遠の語らい』はとても好きな作品で何度か観ている。

 オリヴェイラ監督にはとても丁寧に接したのだろう。ぜったい溶けたアイスなんて出さなかったのだろう。
 今回の旅行、カフェ、レストランでの残念な思い出のほうが多いけれど、ここがNo. 1かな。

 さっさと出ましょう。

 世の中のすべてに憤っているとしか思えない男性を相手に、憤りを覚えながら会計を済ませてカフェを出た。

 何かが違うと思った。私が何かを失ってしまったかのような、そんな感覚だった。じっくり考えるような状態ではなかったからそのときはわからなかったけど、いまならわかるように思う。

 私は過去の熱い記憶に引っ張られていたのかもしれない。

 その昔、私がYくらいの年齢だったころから、私はカフェ文化に夢中になっていた。
 1920年代のパリ、モンパルナスを中心に、芸術家たちが集い、そこで飲んで笑って喧嘩をして、芸術談義に花を咲かせて、刺激を受けてそれぞれの作品を生み出していった、そういう場だったカフェに憧れていた。

 だからパリのいくつかのカフェを訪れたときは、もう、胸がときめいて大変だった。ここでキキが、モディリアーニが、ピカソが、キスリングが……と想像して、目を閉じれば、私も彼らの友人として存在している、そんな感覚になった。

 40代のはじめにフランソワーズ・サガンの本を書き上げたときに訪れたパリのカフェでも、ここでサガンとサルトルが……と想っただけで泣きそうになっていた。

 私の熱い想いがまず、あったのだ。

 パリの熱い記憶のカフェたちだって、観光客スポットになっているから、今回のポルトのカフェと変わりはない。感じの悪い店員だっていただろう。

 ポルトのカフェは、ただ、私の想いがなかっただけなのだ。
 若き日のオリヴェイラ監督が通っていて芸術家たちのたまり場だったって、なんて程度では何も感じるはずがない。
 そして昨日のリスボンで、ペソアが通っていたカフェに「行かなくていい」と言ったこと、実際行かなかった理由も「それほどの想いはないから」につきる。

 人生を歩くなかでは、興味の対象は移り変わってゆくし、いろんなことを知るなかでは、感動のハードルもあがるのだろう。そのくせ、こんなささいなことでこんなに胸が動くんだ……ってこともあるから、おもしろい。

 

◾️アルマス聖堂のアズレージョを前にぼんやりしたのち、レロ書店を諦める

「だいじょうぶ? ちょっと歩いたところに行きたがってた教会があるけど」とYが言う。

 大丈夫だよー、と答えるけれど、Yにはすべてばれていることはわかっている。
 Yはのちに言っていた。「ほんとに無言になるよね、わかりやすい」。

 カフェを出て、アルマス聖堂 Capela das Almas de Santa Catarinaに向かった。

 外壁が一面アズレージョで装飾された聖堂を、道を隔てたところから見上げる。

 わあ、やっぱり実際に見ると違うなあ、とは思ったけれど、美しいなあ、とは思ったけれど、その先がない。
 すべて私のせい。不調ゆえ。残念すぎる。

 ポルトに来た目的の一つはアズレージョだった。
 リスボン市内でもところどころで見かけたアズレージョだけど、規模が大きいものとして有名なアズレージョはポルトにあった。この聖堂と、これから行く予定のサン・ベント駅だ。

 アズレージョとは青と白の陶器タイルで作られた装飾壁画。大きな絵画のように見えるけれど、一枚一枚は小さなタイル。
 もともとタイル好きで、前年のトルコ旅行でもタイルの装飾に喜んでいたけれど、ポルトガルのアズレージョは青と白という色彩、それを貼り合わせて一枚の絵のようになっている、というところでぜひとも一度見てみたかったのだ。

アルマス聖堂のアズレージョ、この角度からしばし見入っていた

 

 さて。次は、世界でもっとも美しい書店のひとつと言われる「レロ書店 Livraria Lello」を目指しましょう、ということで街をぷらぷら歩く。歩いているうちに体調が戻ってきた。ポートワインの作用だろうか。

 それにしても暑かった。そしてポルトはたいへん坂道が多い。
 私は廃人から復活しつつあったけれど、今度はYに疲れが見え始めた。

 ちょっとした広場で道を確かめる。

「えーと、レロ書店はあの坂道を登りきったところにあるね」とYが言った。

 Yの指さす方向を見つめる。
 それはそれは長い坂道だった。そして大工事をしていた。
 長い坂道だけだったら、ゆっくりと散策気分で行ったかもしれない。けれどガンガン大工事をしている横を歩いて行くというのはどうなの。

「どうする?」とYが言った。

「蜃気楼が見えるほどのはるか彼方にレロ書店」
「でも、ここにはなかなか来ることはないだろうね。それに有名な書店だよね」
「チケット買ってないから、いっぱいで入れなかったら外観だけだけどね」
「それでもいい、って話だったんだよね」
「チケットっていう時点で、すっかり観光客仕様なんだろうね」
「それね」

 そんな会話を交わしたのち、ふたりでしばらく坂道を眺めていた。ほんとうに無言で、ただ、眺めていた。

 しばらくしてYが言った。

「行かなくてもいいと思う?」
「うん、ぜんぜんいいと思う。行かないことにも意味があるんだよ」
「ほんと、それよく言うよね。でも謎の説得力があるよね」

 ということで私たちは踵を返して、坂を下り始めた。暑かったので川を目指したのだ。

 Yの疲労は色濃くなっていっているようだ、と案じていたら「ねえねえ、来た時みたいな席で帰るのキツすぎない?」と言う。Yは帰りの座席を案じていたようだ。

 帰りの列車も2等を予約していた。
「1等が取れたら、1等にしない? 30ユーロ追加になるけど」
「ざっと5000円ね、体にはかえられませんね、変更に賛成」

 けれどすでに予約をしている2等席をキャンセルして、それで席がとれなかったら大変だ。ということで、私のiPhoneで1等席を予約したのち、Yが2等席をキャンセル。

「これで安心だー」とYは明るい笑顔を見せる。ちょっと元気になったようだ。

 ドウロ(ドゥエロ)川まで10数分歩いただろうか。
 ドウロ川。水を見られて涼を得たようにも思ったけれど、暑いことに変わりはなく、Yはやはり疲労度が増しているようで、記念写真だけ撮って、タクシーを拾ってサン・ベント駅に向かった。

右手に持っているレジ袋のなかにポテチとグミとお土産があったのにね

 

 

◾️サン・ベント駅のアズレージョ

 サン・ベント Sao Bentoの駅舎のアズレージョは有名だ。
 ここのアズレージョはポルトガルの画家ジョルジェ・コラソ(1868-1942)による作品で、タイルの数は2万枚。11年の歳月をかけて完成させた。ポルトガルの歴史的場面がテーマとなっている。

 画家の仕事を想像する。青と白のタイルで表現された、人々の争い、戦い、喜びに見入る。

 人が往来する駅舎ということもあって、人間のにおいみたいなもの、長い年月、いったいどれくらいの人たちがここを往来したのか、どんな人たちがどんな想いでアズレージョを見たのか、見なかったのか、そんなことも頭をめぐって、私は久しぶりに、その空間に入りこむ、ということを体験した。
 つまり、私の周囲の音や気配が消えて、自分だけがそこに存在しているみたいな、そんな感覚になっていた。

 気力体力が戻ってきたことも大きかったのだろう。ほんとうに良かった。

 どんなにすばらしい場所も、どんなにすばらしい作品も、すべてはそれを感じとる者しだいなのだ。

 こちらの心の動きがあってはじめて、それらは生きる。

ここは久しぶりに、なにか大きなものに圧倒される感があった

 

◾️「ガロ伝説」と失われたお土産物語

 サン・ベント駅からカンパニャン駅に移動して、18時半過ぎの列車に乗った。

 1等車両は、またしても背中が進行方向という座席だったけれど、広くて快適だった。
 安堵と疲労のなか、私たちは街歩きの途中で購入していたポテトチップスをぽりぽりと食べた。

 途中でYが「このくらいにしておこう」と自らの手を止めた。それでも私が機械的に食べ続けていたら、私の手をそっとおさえた。「もうやめなよ、いつもそれで気持ち悪くなるんだから」。

 そうだった。いつもそうだった。疲れているとき、よくわからないまま口に入れて、気づけば気持ち悪くなっている。ということが時折あったのだった。ナイスアドバイスです、と言って私はポテトチップスをしまった。

 サン・ベント駅で、美味しそうなパン屋さんを見つけたので、明日の朝食用にいくつかのパンとコロッケを買っていた。大きめの袋に入れてくれたので、その袋のなかに、街歩きの途中で購入したポテトチップスとグミとお土産が入ったレジ袋を一緒に入れて持ち歩いていた。だから私はその袋のなかにポテトチップスを戻したのだ。

 そう、その袋のなかには、この旅行中ほとんど買うことがなかった貴重なお土産が入っていた。

 こちょこちょっとした、小さなものたちだ。
 ポルトガルの街や、ニワトリが描かれたマグネットを5個、それからニワトリデザインのピンボタンをワンセット、4つのピンボタンを彼らのタンゴシューズの袋につけちゃおう、そんなことを目論んで買っていた。

 なぜニワトリなのか。いや、ニワトリではなく「ガロ」と呼ばなければ。

 「ガロ」とは雄鶏という意味のポルトガル語。リスボンでも、そしてポルトでも、お土産屋さんには置物やキーホルダー、タオルなどなど、たくさんの「ガロ」が並んでいた。「ガロ」はポルトガルのアイコンであり、正義と真実の象徴であり、ラッキーアイテムでもある。

 ここで、ポルトガル北部の町パルセロスで生まれた「ガロ伝説」を。

 あるところに、とある巡礼者がおりました。彼はスペインの聖地を目指して旅をしておりました。
 ところがバルセロスの町に入ったとき、盗みの罪をきせられて捕まってしまいます。
 きっと身なりで判断されたのでしょう。人は見た目でこんなに判断されてしまうのです。
 刑は重くて、なんと絞首刑。
 彼は絶望しましたが、何を思ったか、刑が執行される前に、もう一度裁判官のところに連れていってほしいとうったえます。
 その願いは聞き入れられ、彼は裁判官の家へ向かいました。
 裁判官は仲間とわいわい食事中で、テーブルの上にはメインディッシュなのでしょう、ガロの丸焼きがありました。
 罪をきせられた巡礼者はガロの丸焼きを指さして言いました。
「私は無実です。その証拠に、刑が執行されるとき、そのガロが起き上がって鳴くでしょう」
 それから彼は刑場に連れて行かれました。
 そしてまさに刑が執行されるという、そのすんでのところで、テーブルの上のガロがすくっと起き上がり、高らかな雄叫びをあげたのでした。
 巡礼者は釈放されて聖地をめざしました。そして聖地から戻る途中、ふたたびバルセロスの町を訪れた彼は、記念の碑を建てたのでした。
 おしまい。

 トルコ旅行のときの「ナザボン」のようにポルトガルの「ガロ」はいたるところにあるものだから、愛着がわいてしまった。

 だから翌日、最終日のリスボンでもガロのキーホルダーを買った。写真はそのとき買ったガロたち。

 マグネットもピンボタンも失われてしまったからだ。帰国してしばらくしてから気づいた。
「そういえば、あのお土産、どこいった?」
 荷物はすべてチェックした。謎だった。けれどわりとすぐに記憶の鮮明なYが謎解きをしてくれた。

 私たちは、前述したように、お土産の入ったレジ袋をパンが入った袋のなかに入れていた。そして翌朝パンを食べた。お土産袋は小さいから、こちょこちょっと下の方に入っていた。そしてパンは食べたけどコロッケは残してしまった。ナイナイ、とYは袋をくしゃっと丸めてゴミ箱へ捨てた。

「……ピンボタンは割と高かったよね。ずっしりとした重みもあったはず」と私は言った。

「そうそう、このコロッケずいぶん重たいな、油たっぷりなのかな、とは思ったんだよね」とYは言った。

 失われたお土産話はこれでおしまい。

愛しくてたまりません

 

 

◾️そしてポルトガル最後の夜はあっという間に更けた

 リスボンに戻る列車に戻ろう。ポテトチップスを袋にしまって、それからやがて眠ってしまったようだ。私は眠りません、と前に書いたが嘘だった。
 Yも疲れ果てていたからだろう、すでに爆睡中。「危険だから順番に眠ろうね」なんて精神、どこにも見当たらず。
 ふたりで爆睡していて、ほぼ同時に目を覚ましたと思うのだが、それはリスボン、オリエンテ駅到着の直前だった。乗った列車はオリエンテが終点ではない。あぶないところだった、と言い合いながら、半分寝ぼけながら、慌てて列車を降りた。

 夜、9時半をまわったころのオリエンテ駅は、朝よりもずっと、私たちにとっては怖い空気があった。

「この駅、やっぱりちょっと怖いよね」と言うYはよれよれだ。

 今日は朝、この駅の隣のビルでXLサイズのサンドイッチを食べてから、まともに食べていない。なのに、おなかは空いていないと言う。なので小さなスーパーマーケットで私は今夜のビールと明日のモンスターを、Yは明日のオレンジジュースを買って、タクシーでホテルへ戻った。

 夜、就寝前に、いつもの姿勢、壁に足を立てかけるという姿勢をとりながらYがつぶやくように言った。
「ポルト、びみょうだったね……」
 肩のあたりに赤いソックスがころがっている。
 私の母、Yが大好きなおばあちゃんがまだ生きていた3年前に買ってくれた、あったかソックスだ。「ホカロン」という文字が入っている。踵に穴があいてしまったのを私が繕った。機内やホテルの部屋が寒いときに履いている。お守りのようなものだ。

「ポルトガル、びみょうだよね……」とYは今度は国全体のことを言った。もぞもぞとベッドに潜りこみながら。

 それから3秒後には寝息を立てていた。

 あのYがほんとに何も食べないなんて、よほどの疲れなのだ。
 私は小さなビールを2本飲んで、ポルトガル最後の夜か……と想いを馳せようとしたが眠気に急襲された。

 明日はポルトガル最後の日。おやつの時間くらいにリスボンの空港に行き、そこからイギリスのヒースローへ。ヒースローから中国の上海へ。そして上海から東京、羽田へ。

 旅の終わりの、帰国までの道のりが、今回の「なにがきみたちをそうさせるんだ」と自分たちで突っこみたいくらいの、何かのトレーニングのような過酷な旅のなかでも、もっとも過酷となることを、ビールでよい気分になって眠りに落ちた私は知るよしもない。いまのうちにゆっくりお眠りなさい。

左の2本は今夜の私用。右の2本は明日の私用とY用

 

→旅行記最終日に続く

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