ブログ「言葉美術館」

◆徒党を組まない思考への意志

2020/04/23

Suga__

 

 

 

 ノートを繰っていたら、「徒党を組まない思考への意志」と殴り書きされていて、矢印があり、その先には「ブログに」とあった。

 そうだった。須賀敦子の「遠い朝の本たち」、アン・モロウ・リンドバーグについて書かれているエッセイのなかに、書き残しておきたい言葉があった。

 アンについて述べている箇所で、アンには、

「ものごとの本質をきっちりと捉えて、それ以上にもそれ以下にも書かないという信念」

があると言い、これもゆるぎない一文であって、胸をぐっとつかまれるのだけれど、さらに、こんなふうに続く。

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何冊かの本を通して、アンは、女が、感情の面だけによりかかるのではなく、女らしい知性の世界を開拓することができることを、
しかも重かったり大きすぎたりする言葉を使わないで書けることを私に教えてくれた。

徒党を組まない思考への意志が、どのページにもひたひたとみなぎっている。

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 こういう言葉に出会うと私はそこにひれ伏したくなる。

 もうひと月以上も前だけれど、終戦記念日の日にテレビはどんな番組を流しているのだろうといくつかの番組を録画していたなかに、東京大学大学院教授の加藤陽子さんを見つけて、彼女の発言を書きとめた。

 集団的自衛権についての一般の人たちの討論会のようすを見た後で意見を述べるのだけど、ほかの人たちの言葉、姿勢がぜんぜん心に響かなかったなかで、加藤陽子さんは違った。彼女は自分の立場での意見を言う前に、一般の人たちの討論会についての「感想」を述べたのだ。それが私には面白かった。

 こんなふうな感想だった。

「学識もあり経験もあり、同じバックグラウンドもちながらも意見は変わる。
危険とか安全感というのは、ある意味、ひじょうに情報が限られているなかでは、個人のパーソナルな部分によるところが大きい。
だから一度、たとえば6:4で賛成反対で別れたなら、それ以上、お互いがどんな情報を出し合っても、説得を試みても歩み寄らないのではないか。」

 これ、私が解釈したように書いている。

 おんなじ情報を共有していても、そこから感じとる危険性とか安全性とかは、そのひと個人の感受性、性格によるものなのだということ。だからどんなに意見の違う相手をこちら側に引き寄せようとしても、それは無理なんじゃないか。よほど大きな力が働かないかぎり。

 そういうことなのだと思う。

 私は加藤陽子さんの感想に、私も同じように思うなあ、と共鳴したのだった。

 そして連想ゲームみたいに思い出したのは、サガンの集団狂気(マスヒステリア)への警戒心と、ハンナ・アーレントの勇気ある孤独な闘いだった。

 そして須賀敦子が書いたアン・モロウ・リンドバーグの「徒党を組まない思考への意志」。

 私、どんなに自分に絶望しちゃっていても、ここからだけは離れたくない。

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