ブログ「言葉美術館」

◆誕生日

2016/06/21

_y_49回目の誕生日はよく晴れた。

よい気分で、こんなふうな気分でむかえる誕生日はずいぶん久しぶりのような気がする。焦燥に襲われていたり、物理的精神的に余裕がなくて誕生日どころではなかったり、誰と過ごすかで苦しんでいたり、絶望のどん底にいたり、もちろん楽しいときがなかったわけではないけれど。

先日観た映画「リスボンに誘われて」のなかに、印象に残ったセリフがあった。

「死の恐怖とは自分がなろうとした人間になれないことへの恐怖だ」。

そうなのかもしれない。自分がなりたい人間になれないと確信したときの絶望は死に近いのかもしれない。自分がなりたい自分とかけはなれて生きているということは、それは生物学的に生きているという意味でしかなく、魂的には生きながら死んでいるような状態を意味するのかもしれない。

それでも、私はこの言葉にふれたとき、その先を見たいと思った。

そこからどうするかが問題なのだ。

そのときは心底絶望したって、どうにかできるはずなのだ。人間はそんなに弱くはなく、奇跡のようなことを起こす底力をもっている。だから、ときどき逃避しながら、休息しながら、なまけながら、一番大切なことのためにエナジーをためておく。

とはいえ、一番大切なことすら見えなくなっているときもある。そういうときは、きっといつかそれが見えるはず見えるはず見えるはず、と自分に言い聞かせて、ひとすじの希望にしがみつくこと。

そうすれば、ずっと以前の「なりたい自分像」とは違うけれど、わりと好きな自分像には近づけるような気がする。

世の中にはいろんな記念日があるけれど、私は誰かが決めた記念日に対してはどうも関心がなくて、でもそのぶん、自分と自分が愛する人の記念日はとても重視している。

そして今日はああ、49年生きてきたんだ。と、しみじみ。

一年前のこのシーズン、私はすべてを無にしたかった。けれどそれができなくて、だからほかのことをした。ブログを削除して、いったん自分に死を与えたのだ。そうしなければ現実を生きられなかった。その先に進めなかった。

一年前の記事をさっき読み返して、何度も何度も書き直したことを思い出した。この何倍もの文章があった。削って削って結果、抽象画のようになってしまっている。

あのときのことが書けるようになるまで、あのとき私に起こったことについて書けるようになるまで、あとどのくらいの時間が必要なのだろうか。

それでもあれからほぼ一年。このような気分で誕生日を迎えられるなんてあのときは想像もできなかった。そして削除したブログ記事を、いろんなところからかき集めて再構築するなんてことをしようとは想像もできなかった。

たった一年で、こんなにようすが変わっている。人生の可能性を少し感じる。

私は、もう何度も書いているけど、「すみやかに許し、くちづけはゆっくりと」、40代最後の一年をこの言葉とともに生きようと思う。

これは小津安二郎の大好きなあの言葉にも通じる。

「なんでもないことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う」。

すみやかに許し、くちづけはゆっくりと。

人生は短い、いつ終わるかわからない、限られている。だから、自分が愛しいと思えないものについては自ら関わって煩わされずに、自分がもっとも愛しいと思える時間に私のエナジーを与えたい。そのことで私も満たされたい。

「大切なmama」。「愛をこめて」。ひとめぼれした一枚の絵。あの大好きな瞬間。このときを閉じこめて永遠にしたいという瞬間。

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