◆ I was born
2016/06/21
今朝、娘が学校へ出かける支度をしながら、いま学校の教科書に載っている詩、すごくママが嫌いそうなんだ、と言った。私は、ふーん、……ということはとっても正しい詩、美談なんだね、と返した。なんていうタイトル? I was born。どんな内容?
娘はその詩の内容をざっと話した。それでね、最後は「、、、テンテンテン」ってかんじなんだよ。
私はその内容に胸打たれてしまって、それいいじゃないの、好きだよ、と言った。
そのまま娘が出かけて、気になったので、調べた。だって、きっとそのテイストは私が好きな作家だから。そうしたら吉野弘。吉野弘といえば、ちょっと前に読もうと思って詩集を買ってあったではないか。書棚を探し、ページを繰る。そして落涙。
ある日「僕」は父親とふたりで歩いていて妊娠している女性とすれ違う。大きなお腹、そのなかにいる胎児を想像して「僕」は突如として、あることがわかったように思う。
そして父に伝える。
I was born
生まれるってことは受身形なんだと。「正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね」と。
深い意味があっての言葉ではなく、自分の感覚と文法上の理解が合致したことを無邪気に言っただけだった。
息子のこの言葉に父は蜉蝣(かげろう)という虫の話をする。
蜉蝣は生まれてから数日で死ぬ。そんなんだったらいったい何のためにこの世に生まれてくるのか。
そんなことを考えていたら、あるとき友人から蜉蝣の雌を見せてもらう機会があった。
雌の口は退化して食物を摂る機能がほとんどない、胃も空。
それでも卵だけはお腹のなかにぎっしり入っていて、それはほっそりした胸の方にまで充満している。
そのようすはまるで「目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが、咽喉もとまでこみあげているように見える」。せつない姿だった。
そして父は言うのだ。「そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ、お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは」。
「僕」はその後の話はよく覚えていないけれど、
「ただひとつの痛みのように切なく 僕の脳裏に灼きついたものがあった。
――ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体――
私はこのテーマには無条件に弱い。何だろう、「産」がからんでいると、何がそんなに自分にせまるのだろう。きっとそこには私にとってかなり重要な要素があるのだろう。
娘は、まだまだだな。この詩を私が嫌いだと思うとは。……と、おとなげなく勝ち誇ったようになるのは意味不明とはしても。
私は日々、すごく嫌な思いをしてみたり、自分自身に失望して苦しんだり、欲をもったり、わがままを言ったりしているけれど、それでも、こういう命の誕生や命の終わりという、生命の営みに対するせつなさを美しく表現した作品に出逢うと、自分がいっきに浄化されかのような感覚になる。それが文学の、芸術のちから。だからはなれられない。