◆フィクションとノンフィクション
2016/06/21
ある映画を観た。
その映画は、すごく努力をした人が、その努力が報われて、欲しかったものを手に入れられる、という、その話自体はシンプルなものだった。
けれど、熱い人が作ったに違いなくて、私は胸うたれた。
一緒にではないけれど、娘も同じものを観た。
やはり感動をしたらしかった。
それで、私たちは映画についての話をした。
その流れのなかで彼女が「でもね、フィクションだもん」と言った。
私は「でもね、フィクションから自分が受けとった感動は、フィクションじゃないんだよ」と言った。「たぶん大切なのはそこ」。
そうしたら、何年かに一度くらいのことが起きた。どうやら、その言葉がちょっと響いたらしい、そんなようす。
いまではその言葉が壁に貼られている。あんまりないことだから、すっごく嬉しい私。
このところの彼女を見ていると、人間って、ある時期に、飛び級みたいなかんじで成長するんだなあ。
と思う。
私がそんなふうに成長したのはいつだっただろう。
記憶にある範囲で言えば、第一次は23歳のとき。第二次はいつだろう、第三次は……そんなことを考えながら、また彼女のことに戻って、私にできることは、もうほとんどなく、だからせめて一緒に住んでいる年長のものとして、彼女の健康には強い関心をもち、彼女が必要としたときはそばにいたい。
倒れそうになったときだけ、支えることができれば、もう私にとってはそれは満点行為。
あとは、私がとにかく元気なときを増やすこと。これが難しい。
絵はセガンティーニの「悪しき母たち」*注*とくに深い意味はありません。