◆メイ・サートン『回復まで』と無限の距離
2017/02/08
自分が思っていることをそのまま言える相手というのは、存在しない。思っていることの60パーセントくらい言える相手がいれば幸運だと思う。
私は誰に対しても嘘をつき、黙しているから、60パーセントくらいであっても、思っていることを言える相手と話したあとは、すごくすっきりする。先日、そんな相手のひとりである友だちと、おしゃべりをした。ここだけの話だよ、と言いながら、あんた何様、的なことを方言し、年齢を重ねること、恋とか愛とか家族のこと、なんかについて話した。彼女とは35歳のころに出逢っているから、かれこれ15年。多くの時間を共有してきた。
すこし時間が経って、おしゃべりの内容を反芻してみれば、一番心に残っているのは、「孤独」だった。
結局のところ、人は孤独。生まれてくるのも死ぬのも一人。もう、ここまで生きてくれば、それはどうしようもない事実なのだと、そんなことを話したのだった。
これを、体感として引き受けられれば、私、もう少しましになるんじゃないかなあ、なんて考えて、ちょっと前に読んだメイ・サートンの日記のなかに、なにか、そんな文章があったように思って、本を取り出す。
これ、一週間くらい前に夢中になって再読して、この詩人のこと、私やっぱり好きだな、と思って、ブログに書き残したいと思いつつ、そのままにしてしまっていた。
こういうのが嫌だ。書き残したいと思いつつ、そのままにしておく。そういう雑な生活が、私は大嫌いだ。それを書かないで、いったいどんなに大事なことをしているのかと、自分に皮肉を言いたくなる。
メイ・サートンの『回復まで』。66歳の日記。
私が探していたのは、リルケの引用部分だった。
「もっとも親しい人たちのあいだでさえ無限の距離が存在する、という真実を受け入れられれば、それといっしょに素晴らしいものが育つだろう。
もし、おたがいの姿が空を背景にくっきり浮かびあがる、その距離を愛することに成功しさえすれば」
ああ。無限の距離を、受け入れるだけではなく、愛さなければならないのか。
けれど、このことと、孤独を引き受けることとは似ていると思う。
メイ・サートンの日記、『独り居の日記』『82歳の日記』など、このブログでもけっこう書いているけれど、心にしみいる箇所がたくさんある。創作への熱意、絶望、苦しみ。愛に夢中なその姿、愛を喪ったときの苦悩、再生。
なにか本物にふれたいと思ったときに、読む作家のひとり。アナイス、サガン、安吾、大庭みな子……。
友だちとの会話、私は自分で言いながらびっくりするようなことを言っていた。
独りにも、慣れるね。