ブログ「言葉美術館」

◆正月三が日に吹いた風

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 とにかく、ひとことでは言えない、というか、言えない、いろんな条件が重なって結果的に、私は正月三が日の圧倒的な時間(というかほとんど)をひとりで過ごした。

 二日間映画を連続して観すぎて、映画に食傷気味になるという贅沢な状況になり、三日目はみょうに仕事がはかどった。

 二月初旬に発売予定の本のゲラが、年末ずっと、そして当たり前だけど、年が明けても私のそばにあった。

 「あとがき」だけを書かないでおいたからそれが気になって仕方がなかった。初稿のチェックを終え、ようやく「あとがき」をだいたい書いて、プリントアウトしてそれをもって出かけた。

 ほんとはどこかカフェに、と思ったのだけれど、おなかがすいたので、エスニックのごはんが食べられるお店に入り、パッタイをオーダーした。

 洋服や雑貨のフロアの上にあるいわゆるレストランフロアで、カジュアルなお店で、エスニックな気分のときは、誰かと、そしてひとりでも利用することの多いお店だった。

 席について、ふとあたりを見回して気づいた。ひとりでいるのは私だけだった。

 とつぜん、ひゅるるるーと細く冷たい風が私の体を過ぎた。

 とっさに私は、テーブルに出してあった「あとがき」原稿の余白に書いていた。

「いつもの日ならなんとも思わないのに、一月三日だというだけで、周りを見渡して、たまたまなのかもしれないのに、ひとりで食事をしているのが自分一人だけだと気づいた瞬間、ひとりで食事をすることが、ぞっとするほど淋しくなるのはなぜだろう。答え。……不自由だからだ。一般的な価値観から自由ではないからだ。まだまだ修行が足りないということ」

 でも、タイ風焼きそばパッタイは美味しかったし、右隣りの三人の女性が紅白歌合戦の結果について、嵐のなんとかがどうだとか、審査員がどうだとか大きな声で語り、左隣の二人の女性は共通の知人を上から目線で裁いている、という環境でも、「あとがき」原稿の直しは進んだし、レジで、ちょっと疲れた感じのお兄さんが、私のカードを見て「これは10パーセント割引ができます」と言ってくれたし、「え。思いがけず、すごく嬉しいです。やったー」とはしゃいだら(なんだかほんとに嬉しかったの)「他のお店でもできるはずなのにとぼけているところがあるから言ったほうがいいですよ」と疲れた顔で教えてくれたし、行ってよかったと思う。

 メトロのホームを歩いていたら、数メートル前の、中東の人なのかな、小柄な女性が、「はあ~あ~」って声つきの大きなあくびをしたのを、思いきり見てしまって、あまりにもおおらかなあくびだったから、つい笑ってしまったら、その女性が恥ずかしそうに首をすくめて、「エクスキューズミー」と言って、それこそとびきりの笑顔をくれたし、その笑顔に、ひねくれている私にしてはめずらしく幸福な気分になったし、今日はほんとうに出かけてよかったと思う。

 ところで映画を観すぎたと書いたけれど、観すぎたのは厳密には、中毒になるからご用心。の「ダウントン・アビー」。イギリスのテレビドラマで、1920年代の衣装が素晴らしい、とお友達から教えられて、それを観るために「アマゾンプライム」に登録して、あとはさあっ、見放題、ってなっちゃったから、さあ大変。

 ほんとうに見事な作りで役者もいいから、引きこまれる。いいところで次の回になるわけで、次の回をすぐに観られてしまうから止まらないわけで。

 このドラマ、1912年のタイタニック号沈没から幕をあける。イギリス、ヨークシャーのダウントン村にある屋敷(カウントリー・ハウス)「ダウントン・アビー」に住む貴族一家と下僕たち、その周りの人々を描いている。

 時代が時代だけに、そう、激変の時代なだけに、変わりゆく社会に適応できる人とできない人とで、その運命が大きく異なるのが興味深い。

 それで、何が言いたいかというと、私はこのドラマを観て、昨年末、2017年の標語になるかなー、って掲げた言葉が、ほんとうに身に染みたのだった。

「不変なものなんて何もない」。

 って、これを2017年の標語に、と数日前、つまり昨年末に書いた。

 でも、「ダウントン・アビー」を観ていると「ごめんなさい、私の人生は不変でした」と言いたくなるほどに、めちゃくちゃ、波乱万丈で、つくづく、とことん、「不変なものなんて何もない」と思わされる。

 だから年末に書いたことと、年始に体験したことがつながっていて面白いと思った、と私は言いたかったのでした。

 それにしても、不自由さは嫌だけど、執事やら下僕やらメイドやらがなんでもしてくれる貴族っていいなー。家事がさいきん嫌でしょうがない私は、ただそれがないというだけで羨ましい。じつにしょぼい感想で情けないが、ほんとだから仕方がない。

 こんなことを今年最初の記事にしてしまうのだろうか、と思いながら書き進めて、なぜ正月三が日だとひとりの食事が淋しいように思うのか、という最初の疑問に戻る。

 答え。……不自由だからだ。一般的な価値観から自由ではないからだ。まだまだ修行が足りないということ。

 と私はすぐに書いたが、それはやはり間違っていないみたい。

 なにか季節のイベント、(キリスト者じゃないのにヘンだけど)クリスマスとか、年末年始とか、ゴールデンウイークとか。「その日は何をして過ごすか」がなにかとても重要なことのように、多くの人が思っているそういうイベント時には、他の人たちとの比較が容易い。というか比較をしてしまうのだろう。ほんとうに、意味のないことなのに。

 自分がそれを居心地よく思っているなら、それでいいのに。でも、居心地よく思っていないとしたら? 居心地よくなるように、いろんなことを試みてみればいい。たぶん、そういうことなんだと思う。

 そして私は、こんなのも、それほど居心地悪くないみたい。もちろん、もっと「こういうのがいいなー」というのはあるけど、かなり困難なものですから……。そう、だから、居心地いいとは言わないけれど、悪くはない、っていうのもほんと。

 自分自身がほんとうに満たされていない人は、自分のなかで満たされていないから、自分以外の人たちからの反応で満足を得ようと、自分がしたことをアピールする。一般的な価値観からは「すてき」と思われるようなことをしているでしょう、と。みんな必死。

 私? ほんとうも何も、ぜんぜん満たされていません。でも居心地はそんなに悪くはない、って不思議。

 と、こんなに、もうどこまでもひねくれてしまった……、だったらとことん、自分自身の価値観で邁進してやるっ、と意味不明に意気込む私ですら、一月三日にひとりで食事、という状況で「急に、ひゅるるるーと細く冷たい風が私の体を過ぎた」という体験をしてしまうのだ。

 目指す道は厳しい。修行は続く。

 そして、このブログをお読みくださる方々のなかには、私と似た気配の方が多いように思いますから、言わせてください。

 2017年もきっと何百回もくじけそうになることでしょう。それでも、なんとか歩んでまいりましょう。

 ということで、「言葉美術館」を訪れてくださるみなさまへ。

 2017年もへなちょこ精神の軌跡を綴ってまいりますので、ときどき、覗いてみてくださいね。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

*写真は仕事が進んで幸せモードな空間に、2017年マリリンカレンダーを置いてみました。上田の殿方が今年もくださったの。嬉しい。

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