ブログ「言葉美術館」

■生まれつきのもの 「美の死」 久世光彦■

2016/05/19

 

51xc1zwxw3l「だいたい色っぽいということは、男なら<生勃え(なまおえ)>、女なら<生濡れ>でいる状態のことだとぼくは思っている」

「ぼくの感傷的読書」というサブタイトルの本。

吉行淳之介について語られたエッセイの中の言葉。エッセイのタイトルは「生勃えの戯れ唄」。

「生勃え(なまおえ)」、という言葉をはじめて知った。

久世光彦はこれの親戚として「熱めく(ほめく)」という言葉も使っている。

どちらも、言葉が、言葉としてその意味するところを鮮やかに、そして甘美にイメージさせる

久世光彦の言葉の選び方が、私は好きだ。そこには彼の美学がある。

久世光彦は「ぼくの吉行さんは、いつだって<生勃え>だった。可笑しくて、ちょっと哀しい<生勃え>だった」と言う。

そして、「あの人は、朝の散歩をしていても、電車に乗っていても、猫に餌をやっていても、もちろん女の人に微笑ってみせているときでも<生勃え>に勃えていたに違いない。たぶん死ぬまで勃えきることができなかった代わりに、絶え間なく勃えていたのだと思う」。

いつどんなときだって、色っぽい人だったとよく言われるが、それはそういうことなのだ」。

そして冒頭の一文が続いて、

ネガティブにとらえられがちな「生」だが、これが「四六時中となると、それこそ半端ではできないことだ。

少なくとも、意思の力だとか、鍛錬だとか、習慣とかだけで、そうなれるものではない。

たぶん、血統、そうでなければ人種みたいなものである。

つまり、<生まれつき>といっていいのかもしれない」と、言う。

久世光彦の、吉行淳之介に対する共鳴の声が聞こえてきそうだ。

色っぽいって、<生まれつき>

久世光彦は吉行淳之介に共鳴し、私は吉行淳之介に共鳴する久世光彦に、ずうずうしくも共鳴する。少し悲しみながら。

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