ブログ「言葉美術館」

■「個人のたたかい 金子光晴の詩と真実」 茨木のり子■

2017/02/25

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「すぐれた芸術家は、若いころの処女作のなかに、一生かかって成しとげる仕事の核を、密度高く内包しているものだといわれますが、この詩はそのことを痛感させてくれます」 


「金子光晴の詩と真実」というサブタイトルの本。


いっきに読んでしまった。それは金子光晴そのひと自身の魅力もあったが、それを描き出した茨木のり子の表現力が素晴らしかったから。


冒頭の文は、とても納得できたから、ラインを引いた。というのも、よく「処女作を超えるものは書けない」って言われるけれど、それはどうなのかなあっ、と常々疑問に思っていたからで、茨木のり子が表現したような、そういう意味ならば、確かにその通り、と頷ける。


大庭みな子の「三匹の蟹」をすぐに思い出した。

それにしても。……また引用。


「この期間、ぜんぜん文学書は読まず、詩も発表していません。

ただ自分のなぐさみのためにだけ、手帳に詩を書きつけたりしていました。

けれども、この期間、金子光晴の目はまばたきを忘れたミミズクの目のように、大きく開かれ、物の本質につきささる詩人の眼は、さまざまなものを視ていたのです(略) 

「詩なんか捨てたっていい。」しんそこそう思っていた、詩作の空白時代の五年間が、しかし金子光晴の心の柱を太くした、いちばんだいじな時期にあたっていたのでした。」


平易な言葉しか使っていないのに、なんて深いのだろう。


言葉の選び方、表現というもの。


残暑が厳しいと言われるこのごろ。軽井沢も昨日とそれから今日も27度まで上がるようだ。けれど、もう空気が違う。

家の中で静かにしていれば、暑いという感想を抱かないでいられるほどに、秋。

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