ブログ「言葉美術館」

■大庭みな子■「放浪したい人間」

2017/06/12

「偶然つかんだ居心地のよい場所に根が生えてしまうと、ひとはつまらない退屈な言葉で、自分の立場を用心深く守ることしか言わなくなります。
たとえ、それが卑劣なことだとわかっていても、ひとは不器用に、哀れに自分を合理化して、尊大ぶった処世訓を先輩顔にたれるようになります。
わたくしはそんなふうになりたくない。
わたくしは生涯放浪する魂を持ち続けていたい、と思っています。

……

「ほかにどうしようもありません」という彼女の言葉に胸を打つものがあるのは、自分が思うような生き方をする以外に仕方がない、と外から与えられた示唆に従おうとしない態度なのです。わたくしもまた、ほかにどうしようもなくて、うろつきまわっています」

たとえそれが「たった一日」であっても、それまでに見えていたもの、書くべきものの次に書きたいものが眼前に黒いヴェールが落ちたかのように突然見えなくなってしまうと、「生活」というものができなくなる。

それでもそれは私の我がままだし、それを百パーセント受けいれさせるにはまだ年齢的に幼いひとに対してだけは、最低限の「生活」というものをしなければ、と重い精神重い身体をひきずるようにして動く。
それは私にしてみればとても怖い感覚なので、そういうときは本にすがるしかない。

本棚の前に何度も立つ。

大庭みな子の「魚の泪」。

「泪」という字は、目を見開いたままぽろぽろと流れ出る、そういうなみだを思わせる。

クライシスモードにあるときに手にとる本のなかのひとつ。

放浪する魂、を私はもっているのだと思っていた。

けれどここ数年、それはあやしいのではないか、と疑い始めている。

サガンも放浪の魂の持ち主だった。それを、私も同じだからよくわかると瀬戸内寂聴は言った。そして大庭みな子も。

私は、何かを所有しそれに執着することが嫌で、家を持つのが嫌だったのだ。
根が生えるというか、身軽ではなくなることがとても嫌だった。
それでも、いろんな要因が重なり合って家を持つことになった。
そして案の定、身重になっている。

そして、それを認めたくないし否定したくもないから、普段はあまり考えないようにしているのに、こういう文章に出会うと、「違う、私もあなた側にほんとはいるんです」と大庭みな子に言いたくなる。

私は放浪する人間なのか、放浪しない人間なのか。きっと放浪したい人間なのだろう。

いつもこうだ。半端なのだ。こうありたい姿と現実との乖離。思い出した。

女には恋愛に「溺れる女」と「溺れない女」がいる、というような本を書こうとしていたとき、近くにいた彼に私はどちらのタイプでしょう、と尋ねたら「溺れたい女」でしょう、と言われた。そしてその通り。

小説についての部分もあらためてじっくり読む。

「あれはみんな、わたくしが決して喋ることのできなかった、いつもいつも、想っていて、ごくりと呑みこんだ言葉です。そしてまた、相手が確かにごくりと呑み込んだのを、わたくしがこの耳で確かに聞いた言葉です。
わたくしが小説を書き始めたのは、あまりにたびたび言葉をのみこまねばならず、また、相手がのみこむのを聞いたためです」

……のみこんだ言葉で、あふれそうなんじゃないの? と自問する。

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