■中田耕治■「エロス幻論」
2017/05/26
「何なのでしょうか? ごくふつうの日常の恋愛とはまるで違ったもので、そういう恋愛はすぐに限界がきてしまいます。
自由と、限界のない可能性と、そのなかにある生命が私たちを結びつけたのでした。私たちの貧しさのなかで、ありとあらゆるものとともに世界のすべてが私たちのものでした。
毎日毎日ただ存在するだけではなく、瞬間瞬間に生きることでした。そうしたことのすべてが新しい経験だったのです。
死を背景にしていたからこそ、すべてのことはいっそう生き生きとしていました。
私たち、死ななければなりません。そうして、いかなる空間も死を拭い去ることはできないのです」
なんども読んでいる「エロス幻論」から。
ロレンスとフリーダ。決定的な出逢いにフリーダは「3人の子供と大学教授の夫」よりもロレンスと生きることを選んだ。そしてロレンスは、ただひたすらに、書いた。
冒頭に引用したのは、フリーダの文章。
ふたりがどのような関係だったのかが短い文章のなかに満ちている。なんて美しいのだろう、と落涙する。
そして、あらためて中田耕治の感性に共鳴する。どのように書くのか、だけではない、どこを引用するのか。これも表現者としての感性を曝け出す作業だ。
そして冒頭のフリーダの文章を引用した後、中田耕治は次のように書く。
「ロレンスとフリーダの生活の伝記的な事実についてはここではふれる余裕がない。しかしこのフリーダの美しい言葉がある以上、そうした知識もさして必要がないといえる」
彼の、こういうところがだいすき。それにしても。
「自由と、限界のない可能性と、そのなかにある生命が私たちを結びつけたのでした」そして、「毎日毎日ただ存在するだけではなく、瞬間瞬間に生きることでした」
この部分に、ここまでつよく感応するのはなぜか。中田耕治が言うように、フリーダの言葉が「美しい」のであり、私も「なんて美しいのだろう、と落涙する」ならば、私は今、人生の美しい季節を生きているのかもしれない。
けれど美なるものは、残酷でもあるから。
朝の、マイナスの、頬を切るような空気のなか、森のなかに入って車を降りてみる。しばらくそこにたたずんでいて、からだがすっきり冷え切って、いつまでこういうことをするんだ私は、と本気で自分に呆れながら帰宅し、暖かな部屋に迎えられて飲んだ珈琲はとても美味しかった。