■安吾■「たたかっている気分」
2017/05/26
気持ちが悪いほどに暖かな一日だった昨日の早朝の気温は6度。ラジオによると、軽井沢の場合、これは5月上旬の気温なのだそうだ。5月上旬といえば自分が生まれた季節で、でも、ああ、こんなに寒いんだ、5月上旬って。と軽井沢の5月上旬を暗く感じてどこかに逃げたくなってしまった。
そんな夜に、枕もとの坂口安吾。またしても発見があった。
「作家論について」というエッセイで短いのだけど、ぎゅっと美味しさが凝縮されているような名エッセイだと思う。(もう好きで好きでしょうがないひとだから、どんなのでも抱きしめたくなる状態なのだが)。
安吾は「他人の伝記を書く」ことについて、「自分を表現するために、なぜ他人の一生をかりるか。文学の謎のひとつが、ここにも在ると思う」
分厚い全集をぱらぱらっと繰って、読み始めたところにあった一文だったから、安吾が迷える子羊(少々年齢がいっていしまっているが)状態の私に、アドヴァイスをくれたのかと、一瞬本気で思ってしまった。
聞いたこともない安吾の声が私の耳にそっと、けれど力強くささやく。
「僕は、できるだけ自分を限定の外に置き、多くの真実を発見し、自分自身を創りたいために、要するに僕自身の表現に他ならぬ小説を、他人の一生をかりて書きつづけようと思っている」
この部分、なんども繰り返して読んで、眠りに落ちたのだが、いま、これを書くためにちゃんと読み返したら、ラストのところに次のような文章があった。
「さて、僕は本題の作家論を言い忘れたが、小説の場合に自伝とか他人の伝記とかいうものがあるとすれば、評論家にとって、作家論というものは、小説家が他人の伝記を書くことと同じようなものではあるまいか。
もしそうだったら、作家論というものも、他人をかりて、自分を発見し、とりだすための便宜上の一法であろうと思う。
ただ作家の姿を探すというだけの労作なら、創作集の無駄な序文のようなものだ」
読んだ瞬間に、これまた敬愛する中田耕治の『五木寛之論』を思い出した。
ここには「自分の発見」が色濃く流れていた。だから好きだった。夢中で読んだ。
今、私も自分を創作し、考え、生きるということを塗りこめながら、他人の一生を借りて書く。
それにしてもほんとに孤独というのは、なんともいいいがたいほどに、試練。
外は霧が深くたちこめて私を誘うから、窓に背を向けて仕事をする。