■サガン■「厚化粧の女」
2017/05/26
「それならその人は相手を本当に愛していないんですよ」
「愛し過ぎているとも言えるんじゃないでしょうか?……」
「同じ事です」
愛について登場人物の二人が交す会話。
相手のことを本当に好きなら、相手に夢中になっているならその人の望むことは、なんでもしたいと思うはず、という女に対して男は、それは愛ではない、と言う。
愛しすぎることは、本当に愛していることとはいえない。
というこの理屈に反応したのには二つの理由がある。
一つはとても単純で、教訓的に共感したから。
たしかにね。あなたのこと、ほら、こんなにこんなに愛しているのよ、と迫られて、おなかがいっぱいのところに、一方的に愛を注がれて、幸せいっぱいになる人は、稀だろう。愛はやはりときどき、放任、無執着が必要だ。
もう一つは「本当に愛している」というその言葉に違和を覚えたから。
いったい、「本当に愛する」とは何なのか。
本当の恋、本当の愛。自分自身が、「これは本当よ、私にとっては真実の愛」と思っていても、他人は「そんなの真実の愛じゃないよ」と思う、そして時々それを口にする。
恋とか愛とかに本当も真実も嘘もないのではないか。
一瞬一瞬の胸の温度だけが、大切な事実であって、それが持続するか否か、あるいは、命云々、といったことで、「判断」するのは、下品な行為ではないか。
もちろん、私はいろんなところで、「これが最後」、あるいは「このまま死んでもいい」と思えるくらいの恋愛でなければ! と書いてきた、言ってきた。
そして、この考えは今でも変わらない。
けれど、このような恋愛は、一生に一度、体験できれば幸福(そのさなかにあるときは、とてもじゃないけど幸福という言葉は頭に浮かばないけれど)なことであって、だから、それ以外のものを否定していたら、人生は禁欲的で退屈にならないだろうか、と近頃は思う。
だいたい、「ちょっと心ときめく人」に出逢うことさえ、とても希少なのだから、その数少ない貴重な出逢いを、やはり否定したくはない。
本当か本当じゃないか、なんて誰にもわからない。絵画と同じで、観る角度を変えれば、まったく違った印象になる。