◆アナイスとサティとノスタルジア
もうすぐ発売されるアナイス・ニンのDVD、思い入れたっぷりだから、今年はやらなくていいかな、と思っていた語りと音楽のイベントをしたいなと思い始めている。
アナイスはエリック・サティ、そしてドビュッシーが好きだった。
アナイス、最後の最後の日記の一節を私は泣かずに読むことができない。
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カルテットがドビュッシーを演奏した。涙が溢れてきて、止まらなかった。死にたくないと思った。
この音楽は、世界からの旅立ちだ。音楽とは、つねに亡命の音楽だった。わたしが追放されたもうひとつの世界があり、音楽がよりよい世界の表現となる可能性があった。
……だから私はサティとドビュッシーの音楽に、胸を打たれる。あのふたりほど、もうひとつの世界を意識していた者はいない。
サティの音楽はノスタルジアそのものだ。音楽に対するわたしの姿勢は、つねにノスタルジックなものだった。感情的なものだった。音楽について冷静を保ったり、超然としたり、知的であったりしたことはない。亡命者の気持ちを説明しようとしたことはない。
わたしは涙を受け入れた。
ついに帰れる、と思ってわたしたちは泣く。この場所はよろこばしいものと思うべきだ。だから、それが死のあとに続くなら、それは美しい場所だ。心待ちにすべき麗しいものーー約束の土地だ。だからわたしは音楽のなかで、音楽のなかへ、音楽とともに、死んでいく。
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アナイスは、末期癌で、もう死を待つだけってなったときに、最愛の人、16歳年下のルーパート・ポールに言ったって。家じゅうを音楽で満たしてほしいの。
昨日、お友達からサティの「ジュ・トゥ・ヴ(おまえがほしい)」がいいね、って曲を送ってもらったのに、「軽く欲しい。そんなかんじがするんですよね。私。もっと重いのが好きです。」とか言っちゃって、私はサティがなんにもわかっていないのかもしれない。どうしよう、アナイスが好きな音楽をぜんぜんわからないなんて嫌だ。
それで今朝はサティを流したら、たちまちノスタルジア……。思考が泳ぐ、たゆたう、過去を現在を、自由に。きもちをノートに書きつける。言葉があふれる。
まだまだ知りたいことがたくさんある、書きたいことがあるって思えるしあわせ。
今年、アナイスへの愛を表現するイベントをしてみよう。経済的なあれこれとは無縁のところで忙しくなるのは必須だけれど、それでも、たぶん、私にとって大切なことだから、チャレンジしてみよう。いまはそんなふうに思っている。
「朝からうたたねしてると風邪ひくよ」と画像を送られて、いいえ、寝ていたのではなく、ノスタルジア中だったのよ、とけだるく言ってみる。