■自己撞着と陰影と表現行為■
2016/06/27
軽井沢の「アートコントラーダ」、今年は「浅間山発 ヴェネチア行き」、「現代美術を偏愛した男と女」というぞくっとするタイトルに惹かれて出かけ、男「池田龍雄」と女「増田洋美」の、力強い「表現」の姿勢に、震えを体験した。
ひとりで行くのは嫌だからと、娘につきあってもらって、最後に「おつきあいありがとう」と言うと、彼女は「うん、でも、あのガラスのインスタレーションが見られたからよかったよ」と答えた。「怒り、っていう題の、和室にあったあの黒と銀のが、よかったよ、あれは見られてよかった」と。
私は池田龍雄の世界、自分のなかにあって、いつもは表層に出てこないように抑えこんでいる熱くて柔らかなかたまりが、うずくのを、不安と期待のなかで感じていた。
パネルにあった池田龍雄の文章に出逢い、夢中でノートに書き写した。
瀧口修造の文章の引用があった。
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「芸術は自己撞着である。
生そのものも同じ。
しかし人間の表現行為は厳として存在する。
それは絶えず体制をはみ出し、意味の世界の彼方を指すだろう」
芸術が自己撞着であることを悟っていた瀧口こそまさに大いなる矛盾のかたまりであった。
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自己撞着(自家撞着)じかどうちゃく、って自己矛盾のこと。自分の生き方や表現に矛盾を内包していること。
芸術も、生も、自己撞着なのだ。
自己のなかに激しい矛盾を抱え、その矛盾が擦れあい熱を発する。
唐突に思うのは、そうか、自己撞着という言葉から遠いひとが、もしかしたら、このところ、私が「もっともなりたくないひと」として意識することの多い「陰影のないひと」なのかもしれない。
現代美術を偏愛した男と女の、「表現行為」の場の脇、国道18号線は渋滞していた。
みんな、何を目指してどこを目指して、ここを通り過ぎていくのだろう、そんなことを思いながら、丘の上から渋滞する車をしばらく眺めてしまった秋の夕刻。