■■抱擁されているのか、しているのか■■
2016/07/01
昨夜は、アナイスの日記を読みながら眠りについた。
二日、気分のよい日が続いていて、そのことに感謝しながら、正確には「訳者解説」を読みながら眠りについた。
1980年、アナイスの死(77歳)から3年後、夫のヒューゴー(81歳)とアナイスの最後の愛人ルーパート(61歳)がはじめて顔を合わせた。
どちらも淡々としていたという。
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その頃のヒューゴーは、アナイスが彼に隠しおおせたと思っていたらしいもろもろの愛の遍歴について、
「いや、もちろん、僕は、みんな知ってはいた。だが、知らないふりをしていなければならなかった。アナイスのゲームだからね、そのルールを守ってプレイするより仕方がなかったのさ。そうしなければ、僕は彼女を失うことになっただろうからね」
と言っていた。
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ヒューゴーという夫がいたから、大きく抱擁してくれる夫がいたから、アナイスはさまざまな男たちとの恋愛に身を投じることができたのだ。
という見方はとても安全なのだろうが、アナイスの日記を読む限り、アナイスはヒューゴーに対して、自分が側にいてあげなければだめなのだ、という感覚を抱いていた。
日記で、アナイスはしばしば残酷なまでの観察を記しているのだが、そこには、自分は他の男でもいいけれどヒューゴーは私でなくてはだめなのだ、が色濃く流れている。
だから、今朝起きたとき、アナイスとヒューゴーを思い浮かべて、いったいどちらがどちらのゆりかごだったのだろうか、なんてことを考えた。
第三者からみれば、圧倒的に一方的なように見えても、実際のところは、わからない。
それが男女の組み合わせの不思議で、そして、おそらく本人たちが一番わかっていない。
けれど生活してゆくうえで重要なのは、冷静に自分たちの関係性を分析することではなく、今そのときの状態が自分自身にとって、他の選択と比べて居心地がよいかどうか、そして相手が、居心地よくいるかどうか、ということだと思う。
私が考える「居心地がよい」状態とは、「すっごくハッピー」という種類のものではなく、「絶望的ではない」という状態で、かなりハードルは低い。
けれど、この低いハードルでさえも超えられないときがあったりするのだから、居心地がよい、と思えている状態をもっと大切にしなければ、と思う。
娘の誕生日も過ぎて、これが過ぎると突然、春を意識する習性が私にはあって、それを裏切らない程度に、すこしずつ、軽井沢も季節が変わろうとしている。