ブログ「言葉美術館」

■■放浪したい人間■■

2016/06/27

Cid_f13fac74882843a8a0701133bc1ef55「偶然つかんだ居心地のよい場所に根が生えてしまうと、ひとはつまらない退屈な言葉で、自分の立場を用心深く守ることしか言わなくなります。 たとえ、それが卑劣なことだとわかっていても、ひとは不器用に、哀れに自分を合理化して、尊大ぶった処世訓を先輩顔にたれるようになります。 わたくしはそんなふうになりたくない。 わたくしは生涯放浪する魂を持ち続けていたい、と思っています。 …… 「ほかにどうしようもありません、という彼女の言葉に胸を打つものがあるのは、自分が思うような生き方をする以外に仕方がない、と外から与えられた示唆に従おうとしない態度なのです。わたくしもまた、ほかにどうしようもなくて、うろつきまわっています」 たとえそれが「たった一日」であっても、それまでに見えていたもの、書くべきものの次に書きたいものが眼前に黒いヴェールが落ちたかのように突然見えなくなってしまうと、「生活」というものができなくなる。 それでもそれは私の我がままだし、それを百パーセント受けいれさせるにはまだ年齢的に幼いひとに対してだけは、最低限の「生活」というものをしなければ、と重い精神重い身体をひきずるようにして動く。 それは私にしてみればとても怖い感覚なので、そういうときは本にすがるしかない。 本棚の前に何度も立つ。 大庭みな子の「魚の泪」。 「泪」という字は、目を見開いたままぽろぽろと流れ出る、そういうなみだを思わせる。 クライシスモードにあるときに手にとる本のなかのひとつ。 放浪する魂、を私はもっているのだと思っていた。 けれどここ数年、それはあやしいのではないか、と疑い始めている。 サガンも放浪の魂の持ち主だった。 それを、私も同じだからよくわかると瀬戸内寂聴は言った。 そして大庭みな子も。 私は、何かを所有しそれに執着することが嫌で、家を持つのが嫌だったのだ。 根が生えるというか、身軽ではなくなることがとても嫌だった。 それでも、いろんな要因が重なり合って家を持つことになった。 そして案の定、身重になっている。 そして、それを認めたくないし否定したくもないから、普段はあまり考えないようにしているのに、こういう文章に出会うと、「違う、私もあなた側にほんとはいるんです」と大庭みな子に言いたくなる。 私は放浪する人間なのか、放浪しない人間なのか。きっと放浪したい人間なのだろう。 いつもこうだ。半端なのだ。こうありたい姿と現実との乖離。 思い出した。 女には恋愛に「溺れる女」と「溺れない女」がいる、というような本を書こうとしていたとき、近くにいた彼に私はどちらのタイプでしょう、と尋ねたら「溺れたい女」でしょう、と言われた。 その通り。 小説についての部分もあらためてじっくり読む。 「あれはみんな、わたくしが決して喋ることのできなかった、いつもいつも、想っていて、ごくりと呑みこんだ言葉です。そしてまた、相手が確かにごくりと呑み込んだのを、わたくしがこの耳で確かに聞いた言葉です。 わたくしが小説を書き始めたのは、あまりにたびたび言葉をのみこまねばならず、また、相手がのみこむのを聞いたためです」 ……のみこんだ言葉で、あふれそうなんじゃないの? と自問する。

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