■中山可穂の「感情教育」■
2016/06/28
年末年始の小旅行の鞄に入れる本、今年は迷った。
仕事中の資料を入れる年もあるし、ずっと読むのを我慢していた本を入れる年もある。
今年はそのどちらでもなくて、本棚の前で数十分たたずんで、結局選んだのが大庭みな子『魚の泪』と中山可穂『感情教育』。
大庭みな子のについては次回に書くつもり。
中山可穂は大好きな作家で、このブログでも何度も書いてきているし、『軽井沢夫人』のなかでも思いきりファン告白をしている。
今回『感情教育』を選んだのは、タイトルに惹かれたから。いまの私に必要なものがある。
ここ数年こころの底のほうにつめたいものが沈んでいてそれがだんだん堆積していることに気づき始めていて、それが私はこわかった。
ふたりの女性のはげしい恋の物語。
涙をふくめた体液でぐしゃぐしゃの濃い恋愛物語。感情を抑えることに慣れている恋人に彼女が言う。
「あなたには感情教育が必要みたいだね」
「もっともっと、狂ったようにわたしを愛してほしい。(略)もっともっと、全面的にわたしを信じてほしい」
狂ったように愛する。全面的に信じる。そういう愛を相手にもとめる。躊躇することなく、まっすぐにもとめる。その相手が運命の相手ならば、きっと魂の扉は開かれる。そしてやがてふたりは互いに「感情教育」をしあっていることに気づく。
感情教育をしあう恋。恋愛とはやはりきれいごとだけでは済まない。それで済むようなものならば、それは恋愛ではない。なにか大切なものを与え合うこと。それだけではなく、なにか大切なものを奪い合うこと。そう、奪い合ったっていい。いまはそう思う。
そして中山可穂ならではの性愛についての描写。
「那智が理緒から受け取っているものは快楽ではなかった。それはまぎれもなく幸福というものの片鱗だった。
そして理緒が那智の体から掘り起こしているものは前世に愛し合ったかもしれない記憶のかけらだった。
二人は互いの体に沈潜すればするほど、まるで自分自身のなかへ深く入り込んでいって、その癒しがたい孤独を癒し、その触れがたい魂に触れ、赦しがたい自らの生を赦しあい抱きしめあっているような気持ちになった。」
海が見える部屋でひとり耽溺し、なんどか涙した。
こういうのを読んでしまうことは私にとっては複雑だ。
読者としてはこのうえなく幸せ。
けれど物書きとしては。
いままでは落ち込んで、立ち直るためにつまらない小説を読んだりしていた。
今回は違った。
自信に似たなにか強いものが私を支えている。
それが、あなたはあなた自身のなかから生まれた言葉でひとを愛することについて書け、書ける、と言う。この声が聞こえているかぎりだいじょうぶ。