◆目を閉じるか閉じないか。「存在の耐えられない軽さ」
映画を観たり本を読んだりインプットばかりの日々が続くと、どこかでさぼっているような感覚になる。これも必要なこと。次の本のための準備でもある、と自分に言い聞かせても落ち着かない。
落ち着かないくせに、直接次の本につながらないミラン・クンデラの小説を再読したりする。
「存在の耐えられない軽さ」。
けっして易しい小説ではない。手強い。集中しても作家の表現していることのほんの少ししか自分のなかにとりこめていない、というへんな自信のようなものがある。
それでも10年くらい前に読んだときとはまた違ったところに興味を抱いたりするところがおもしろい。ラインをひく箇所が違ってきている。
今回は性愛についての描写のところで考えさせられた。
ひとつは、目を閉じてするか否か、という問題。
ヒロインのひとりサビナ、彼女は画家で奔放な生き方を好む。そんな彼女の愛人、大学教授のフランツと愛を交わすシーン。
フランツは性愛のときに目を閉じる。サビナはそれを嫌う。フランツには守るべき妻がいるとか、ほかの理由もあり、これを最後にしようと、そう、別れを決意して彼女は寝室の明かりを消す。なぜなら。
「彼女はもう一瞬とも閉ざされたまぶたを見たくなかった。諺にいうように、目は心の窓である。彼女の上でいつも目を閉じたまま激しく動いたフランツの身体は彼女にとって心のない身体であった。」
そしてサビナはこれが最後だということで燃え、何も知らないフランツはそれを喜ぶのだが、次の描写が秀逸。
「両者が二人を解放した裏切りに酔っていた。フランツはサビナに乗って自分の妻を裏切り、サビナはフランツに乗ってフランツを裏切った。」
うーん。性愛時の男女のすれ違いをこんなにみごとに書かれるともうだめ……
この描写はともかく、目を閉じる閉じないというところで、私は性愛ももちろん、タンゴを想った。たいていは目を閉じて踊るけれど、ときどき、相手の目をのぞきこみながら踊りたくなるときがある。それはいったい自分がどんな気分のときなのか、どんなひとが相手だとそうしたくなるのか考えを泳がせた。
もう一箇所、ラインをひいたところを。これは有名な話なんだけど。
「トマーシュ(主人公の男性)はプラトンの有名なシンポジオンという神話を思い出した。人びとは最初、男女両性具有者であったが、神がそれを二等分したので、その半身はそれ以来世の中をさまよい、お互いを探し求めている。愛とはわれわれ自身の失われた半身への憧れである。」
作家は問う。もし、このひとだと思った誰かに出逢ったあとに自分自身の半身と出逢ったらどちらを優先すべきだろうか、と。
長いあいだ忘れていた物語。
今日は一日中、強風のなかにいた。家から出なかったのだけど、建物の構造なのか、とっても風をかんじる。音と揺れと。つねに何かに脅かされている感覚。精神衛生上よくない。だからかすこし不調。そんな日もある。