■■感性と知性と寛容さと■■
2016/06/27
緑が恋しい。
植物を育てることなんて、すっごく苦手なのに、同じように緑を恋しがる娘にせがまれて、つい買ってしまった。
毎日水をあげたり、陽の光にあてたりしている。
そんなことをしていると、自分のなかに生まれた余裕にふと気づいて、小さな喜びを感じる。
心身の状態がわりとよい夜は、娘とゆっくりと話ができる。
話を聞いて「あげる」のではなく、聞かせて「ほしい」、対話を「したい」、という姿勢でのぞむことができる。
彼女の口からとめどもなくあふれでる数々の、彼女の人生の物語。
国語を学ぶ意義についてから授業をはじめた先生のこと、その授業内容、それに対して彼女が感じたこと。私の意見、感想。
彼女の私に対する分析。
そういえば、娘の国語の先生が最初の授業で生徒たちに伝えたかったことと同じことを私は『サガンという生き方』の終章で書いていた。
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知性とは何か。
それはサガンが作品のなかで言うように、物事を多様な角度から見ることができる能力なのだろう。そして、それは「優しさ」に続いている。(略)
一つの事柄に対して、さまざまな視点で考えることができる。そしてその必要があれば、自分の考え方を変える柔軟性がある。
自由であることを願い、だから他の人の自由を尊重する。
人間を知りたいという欲求がある。
自分自身を見つめ疑うという作業をする。
そこから他人に対する「優しさ」が生まれる。(略)
作品からあふれ出るサガンのまなざし。
そのまなざしの奥底にしずかに美しく湛えられているものこそ、サガンの最大の魅力なのだと思う。
それは敢えてひとことで表現すれば、寛容さだ。
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寛容さは生きてきた年数でつくられるものではない。
たぶんそれは感性……、感受性というものと関係がふかい。
「知性が感性を支える」という信条を私は好んでいるのだけれど、わかくてやわらかな感性をそだてるものこそが知性であって、だからわかいひとたちは学ぶことが大切だし、わかくない私だって学び続けたい。
なぜなら、醜いより美しくありたいし、寛容なこころをもちたい、という想いから離れないでいたいから。