■■「海からの贈物」と「魂の静寂」と芍薬■■
2016/06/28
『うっかり人生がすぎてしまいそうなあなたへ』のなかでも、とくに思い入れの深い一篇に、アン・モロウ・リンドバーグの『海からの贈物』をきっかけにして書いたエッセイがある。
「女と家庭とひとりの時間」というタイトル。
眠れぬ夜にまた読み返す『海からの贈物』。
「我々が一人でいる時というのは、我々の一生のうちで極めて重要な役割を果たすものなのである。
或る種の力は、我々が一人でいる時だけにしか湧いてこないものであって、芸術家は創造するために、文筆家は考えを練るために、音楽家は作曲をするために、そして聖者は祈るために一人にならなければならない。
しかし女にとっては、自分というものの本質を再び見いだすために一人になる必要があるので、その時に見いだした自分というものが、女のいろいろな複雑な人間的な関係の、なくてはならない中心になるのである。
女はチャールズ・モーガンが言う、『回転している車の軸が不動であるのと同様に、精神と肉体の活動のうちに不動である魂の静寂』を得なければならない」
2003年に出版した『うっかり人生が……』では、タイトルが示す通り「ひとりの時間」というものに集中して書いた。
今回は、チャールズ・モーガンが言ったという言葉のうち、「魂の静寂」という言葉に、はげしく心うばわれた。
これを得ることは、なんてむずかしいことだろうと、ほとんど驚嘆しながら、でも、やはりこれがないと創造することは難しいし、大切なひとに愛をそそぐことも難しいのだと、あらためて感じた。
いま、私たちのちいさいけれど、いごこちのよい空間を彩っているのは芍薬。
朝と昼と夜とで色が変わる。
もちろん光線のかげんなのだけれど、とても好き。
めずらしくまめに手をかけている。
グロべローヴァのアリアを大音量で流したり、「THE HOURS」のサントラをしずかに一日中流したり、「タカラモノ」を聴いたり、「流星」を聴いたり、「もっと遠くへ」を聴いたり、そして芍薬をながめてカタルシスに似たものを得たりしている。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。
ああ。そんな美しい人はきっと、魂の静寂を知っている人。