■■どんなセンスと戦っていますか■■
2016/06/11
文章、言葉に対する愛情。
自分にしか表現しえないこと。
文学への想い。
そういうものにふれたくて、このところの夜の読書は須賀敦子。
昨夜は『ヴェネツィアの宿』を読んだ。
私にとってある意味で特別な本となっている『うっかり人生がすぎてしまいそうなあなたへ』のタイトルと、その核ともいうべきものになった言葉がある『ヴェネツィアの宿』。
須賀敦子がパリで得た友、カティアという名のドイツ人の女性が言った言葉。
「しばらくパリに滞在して、宗教とか、哲学とか、自分がそんなことにどうかかわるべきかを知りたい。いまここでゆっくり考えておかないと、うっかり人生がすぎてしまうようでこわくなったのよ」
昨夜は関川夏央の「解説」(タイトルは「彼女の、意志的なあの靴音」)のなかに、心ひかれる箇所を見た。
***
晩年のある時期、私は朝日新聞の書評委員会で彼女と同席していた。
帰りには「黒塗りの車」つまりハイヤーがひとりひとりに出るのだが、彼女はそれに乗ることをいやがった。
「ああいうものに平気で乗るセンスとずっと戦ってきたのよね」
と私にいった。
その言葉は気負いなくさらっと発声されたのであるが、私は少し驚きつつ、温厚な表情の裏側にひそむ強いなにものかに触れた気がした。
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「ああいうものに平気で乗るセンスとずっと戦ってきたのよね」
私自身は軽薄だから、ハイヤーを準備されたら「わーい」と喜んで乗っちゃう。
けれど、須賀敦子のこの言葉に、私は考えた。
ハイヤーに平気で乗ることうんぬんではない。
私はどんなセンスと戦っているのだろうか、ということだ。
それで、いろいろと考えて眠れなくなってしまった。
こういうセンスと戦っているのよっ、と、どんどん戦闘対象みたいのが浮かぶ時期と、そうでない時期とがある。ちょっと休戦中みたいなとき。