■■松井須磨子と理解されたい欲望■■
2016/06/11
恋人のあとを追って、34歳で自死した女優、松井須磨子について知りたくなって何冊かの本に目を通した。
「松井須磨子 牡丹刷毛」は須磨子が書いた文章なのだけれど、それに島村抱月が「序文」を寄せている。
作家の島村抱月。
須磨子を一流の女優に育て上げ、支え、既婚の身であったから結婚はできなかったけれども、実質的な結婚生活を送り、病死した、須磨子の恋人。
須磨子が後を追った恋人。
私、この序文(正しくは「序に代えて」)を読んだ時、どっと涙があふれた。わあ……これ……後を追うでしょう。
なぜなら、そこには島村抱月の須磨子に対する愛情があふれていた。
一方的な愛ではない、恋でもない、そこにあふれるほどに、完璧にあったのは、「理解」だった。
島村抱月は須磨子を、おそらく須磨子本人以上に理解していた。
「むかしのことば」っぽいから難しいかんじがするので、超訳してみる。
***
俳優の内的条件、何よりも大事な心理条件は、目の前の路を一直線に前進する、情熱の人であることだ。
それは、俳優という肉体芸術家の霊魂がもつ描写力の永続であり、表現力の永続であり、創造熱の永続である。
女優としての松井須磨子がもつ最大の強みはこれだと思う。
そしてこういうものをもった人は世渡りが下手になり、ワガママであるというレッテルをはられる。
そして芸術に深入りすればるするほど、世間というものと不和になる。
須磨子も、芸術を捨てて世間をとるか、世間を捨てて芸術をとるか、この二つの岐路に悩んでいるかよわい女性である。
このさきの路にはまだ多くの忍耐と征服が必要だ。
もし君に前途を征服してゆく力があるなら、それは君の芸術の力だ。
君はただ、君自身が創造しうる芸術の力で、すべてのものから生き残るべきだ。
芸術の力は強大である。
***
私はつぶやく。
大好き……抱月(すでに名前呼び捨て)。ほうげつ、すき。ほうげつ……。
それにしても、抱月のとなりで眠りたいと最後のお願いをしたのに、正式に結婚していないからという陳腐な理由で、願いが遂げられなかったことがかなしい。
かわいそうな須磨子。
最後まで世間は芸術家に冷酷だった。
ああ、私いま、世間、なんて言葉を無自覚に使ってしまった。
「軽井沢夫人」は頭をかかえながら言っている。「ああ!世間って……誰?!」と。
そうなのです。
世間ってよく考えるとわりと固有名詞を持っていたりするのです。
その固有名詞を持った人が、自分たちのお仲間として持ち出す単語が「世間」なのでした。
あぶなかった。
だまされないようにしないと。
薄桃色よりも薄緑色が勝ちつつある目黒川。今日はくもり。暗い気分でも許される天気。ゆっくり桜並木を歩きたいきぶん。