■■ひとすじの光を見た■■
2020/03/12
日本という国が、ますます信じがたい方向に進んでいる今、いろんなところで、いろんな人が、いろんな表現手段をもって、それぞれの思想を主張している。
先日、フライング・ダッチマンというアーティストの「ヒューマン・エラー」という曲を聴いた。曲というよりは、詩。叫ぶ詩人がそこにいた。ひとすじの光を見た。
私はすぐに、ジョナス・メカスの、私自身がとても大切にしている言葉を想起していた。
『うっかり人生がすぎてしまいそうなあなたへ』というエッセイ集、
「人の性(さが)は醜いとしても」に、私はジョナス・メカスをテーマに書いた。
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巨大な組織によって生み出された、戦争、苦難、環境破壊、精神の荒廃に喘ぐ今の世界を救えるものがもし、あるとするならば、
「それはひとりの人間の、個人的な、他人に気付かれることもない、内面の活動、小さな個々の努力、そうして成し遂げられる仕事である。
地球全体が腐敗と放射能の霧に包まれても、そこに詩がある限り、人間に対する希望は持続する。これは愚者の願い、今日の思想である。わたしは愚か者だ。」
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このジョナス・メカスの言葉を受けて、私が考えたことは、本を出版して9年が経った今でも変わらない。
私は次のように書いた。
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詩とはなにかと考える。
美しいものに反応するこころの動き、自分ではないものの痛みを想像するちから、そして、現実に起こっていることが長期にわたって続いても、それが実際に自分や身近なひとたちの直接的な脅威にならなくても、けっしてその状況に麻痺することなく動き続ける、こころの筋力なのではないか。
……
もう起こってしまったことだから、あるいは、もうそれはどうしようもない人間の性(さが)なのだ、と諦めたところでいったい何が生まれるというのか。
ほんとうに小さな人間的なことだとしても、できることを自分のやりかたで実行していかなければ何もはじまらない。
こういうひとりひとりの虚しさ、信じたいものがあるくせに、現実に押しつぶされてそれを放棄してしまう、こころの弱さこそが、悪なのかもしれない。
……
世界はますます崩壊へむかっているなかで、それでもやはり詩人は世界中に存在し、けっして大きくはないけれど、声をあげつづけている。
そこには希望がある。
はてしなく広がる暗闇を見るか、ひとすじの光を見るか。私は光を見たい。
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自分にしかできないやり方で、マス・ヒステリア(集団狂気)に陥ることなく、何かをし続けなければ。
私、なんにもしていない、と自分自身を恥じ入るようなのは、あまりにも美と遠い。
絵はワッツの「希望」。