■「大好きです」■
2016/05/22
インプットしかできない日々にそんなに焦らなくなったような気がするのはよいことなのかどうか。
手当たり次第に本を読んで、映画を観る。
映画はたとえば「タンゴ・リブレ」であたらめてタンゴの激しさと恍惚の危険さを感じ、
「ヒステリア」でとってもためになる軽井沢夫人的「お勉強」をし、
「ナタリー」でファッションを楽しみ、
「アンコール!」で老齢の愉しみに想いを馳せ、
「25年目の弦楽四重奏」でベートーヴェンの弦楽四重奏曲14番にはまって毎日聴くようになり、
「グランド・マスター」でトニー・レオンを堪能し、
「ザ・レガシー」でマイケル・ジャクソンの繊細さを好きだと思う。
そんな日々のなか、最高に幸福なひとときがおとずれた3月10日の夜。
卒業文集に綴られた言葉に落涙。
そこには愛情としか呼べないものがいっぱいにあふれていて、私はこの3年間を、我が人生のもっとも試練的な3年間を想い、最後にイエス(肯定)の声を聞いたように思えて、そんな声を届けてくれた彼女に激しく感謝するのでした。
誰からどんな言葉を聞くか。
人生のなかで決定的な言葉を決定的な相手から私たち、受けている。
そんなに多くはないけれど、いままでにも、たしかに、あった。
恋人から、友人から、家族から。
記憶をたどって、当たり前の結論に達する。どんな言葉でも自分にとって決定的な人でなければ、ぜんぜん胸に響かないし、どんな単純な言葉であっても、自分にとって決定的な人であれば、危険なくらいに胸に響く。