■緊急事態下日記 ◎Tango アルゼンチンタンゴ ブログ「言葉美術館」 私のタンゴライフ
■緊急事態14日目。時代の魂と「ひとりタンゴ」
2023/09/10
日曜日のお散歩では、駒沢公園近くを通ったのだけど、翌日、その日は、公園が、普段以上のひとでいっぱいだったという情報を目にした。
今日は『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史』(高橋源一郎)を読んだ。
いちばん面白かったのは、本のタイトルにもなっている章。
1991年、内田裕也が都知事選に立候補したときの政見放送について語られている。立候補したことを知ったとき、高橋源一郎は馬鹿にしていたけれど、なにげなく見たNHKの政見放送で、「テレビの画面に、巨大な違和、が生まれた瞬間」を見た。
そして、長いのを全文紹介したいほど、この内田裕也の政見放送がそれだけ素晴らしいか、高橋源一郎の熱がうっとうしいほどに伝わってくる。だから私はどうしようもなく、引きこまれ、ページを繰る。
彼は5分57秒の「異様な放送」が終了して、まったく動けない。いま見たものは、いったいなんなんだ、と考える。
「わからない! でも、素晴らし過ぎる!」
この感覚は、中学3年生のときにドストエフスキーの『悪霊』を読んだときと同じ(!)、と言う。
さて、内田裕也は「英語」でしゃべった。
なぜか。
***
聴衆の注意を引くためである。(略)でも、みんなわかんなかったと思う。それでいいのか、ウチダ! それでいいのだ。なぜなら、コミュニケーションはいったん、断ち切らなければならないからだ! そしてその後で、命がけで再構築しなければならないからだ!
***
さらに続く。
***
内田裕也が「英語」でしゃべったのは、ニッポン語では、「敵」に、その内容が知られてしまうからだ。なにしろ、その内容は、あまりに深刻だからだ。なんて用心深いんだろう。まあ、そのせいで、「味方」のはずの連中にも、その内容がわからなかったわけだけど。惜し過ぎるぞ!
***
そして政見放送のラストについて。
「演説が終わると、テレビが発明されて以来、もっとも美しい場面になる。話したいことを話し終わった内田裕也は、画面を(我々を)見つめて、完全な沈黙に入る。おれたちが見つめているのではない。おれたちが内田裕也に見つめられている十数秒が過ぎ、もう一度、内田裕也が、短くはっきりと、「よろしく」といい……(略)」
そしてアナウンサーの声が流れて政見放送は終わる。
高橋源一郎がこの政見放送を思い出したのは『JOHNNY TOO BAD 内田裕也』を読んだからなんだって。
***
ロックンロールしている。そして、時代の魂を(誰も頼んでいないのに)揺り動かそうとしている。余計なお世話だ……。それらはみんな「戦後文学」がやって来たことだった。でも「時代は変わり」「戦後文学という物語」は終わってしまった。
なのに、
終わってなんかいない! と叫んでいるやつがいるのである。そしていきなり、おれたちに「英語」でしゃべりかけたりするのである。
そして、
怖がるな!
騙されるな!
と扇動するのである。そして激しく扇動した後、優しい声で、歌ったりするのである。
今夜はひとりぼっちかい?
ぼくがいなくて寂しいかい?
***
内田裕也はエルビス・プレスリーの「Are You Lonesome Tonight?」、これを政見放送の最初にアカペラで歌っている。
6分弱の政見放送について、ここまで壮大な物語を展開し、熱く語る高橋源一郎。私は魅せられた。
なんたって、「時代の魂」だよ。
もちろん、すぐにYouTubeをチェック。内田裕也の政見放送。3回観た。3回観たいと思わせるものだった。
興味ある方はぜひ。いくつかあってどれがベストか自信がないからリンクなし。
読書ののち。
今日は原稿に手を入れる気にならなくて、机の上の原稿の上に本を置いて隠して(だって急かされている気がするのよ)、それから、いま休業中の「タンゴサロン ロカ」のことを想った。
アルゼンチンタンゴは、そのスタイルからしても、ひっじょうに厳しい状況。いったいいつになれば、コロナ以前のようにミロンガ(タンゴのダンスパーティーみたいなかんじ)で踊れるようになるのか。
スタジオの先生、ダンサーはもちろん、タンゴ愛好家みんなが、そうとうなフラストレーションのなかにいるのは想像に難くない。私もそのひとり。
ミロンガがなくなってから、何度かスタジオに降りて、「ひとりタンゴ」を踊った。
壁を相手に。エクササイズから入ってはみるけれど、どうもだめだから、「ひとりタンゴ」に移行。好きな音楽をかけて目を閉じて、相手を自在に想像しながら踊るの。このほうが好き。つねに、想像上のなかやまたけし先生の視線があるなかでね。
ーー「ひとりタンゴ」楽しい?
ーーいいえ、楽しくはない。
でものってくると、妄想得意だから、目を閉じて、ミロンガの世界へ行けることもある。
でも、そのときの気分によっては「ひとりタンゴ」→むしょうに踊りたくなる→アブラッソが恋しい→悶絶する→落ちこむ→さめざめと泣く、という流れになることがあるので、というか多いので、階下に降りるのは、覚悟が必要。
今日は高橋源一郎効果か内田裕也効果か、精神のコンディションがわりとよくて、夕刻から、体がタンゴを欲していた。
タンゴを聴きながら体を動かしたかった。
部屋着のままタンゴシューズに履き替えて階下に降りた。
そして、今日はものすごく、入りこめた。
なるべく涙につながらない、激しい曲を選んで踊ること2時間。
暑くなってきて、ロングスカートを脱ぎ、長袖のシャツを脱ぎ、ひとりじゃなければできないファッション(とはいえない代物)で踊る。
途中、これ、録画してみようかな、と思った。
さいきん、今後のために、朗読やらトークやら、動画を撮る練習をしていることもあり、ふと、この様子を録画してみようか、という気になったのだ。
そして、はじめて、自分の「ひとりタンゴ」の様子を録画。
2時間後、仕事場に戻り、動画を見る。部屋を明るくして撮ったから、すみずみまでよくわかる。
感想?
ほぼ想像通り。よれよれ。
5曲分くらいをずっと撮っていたのだけれど、最初は撮っているのを意識して動いているのがわかる。
でも途中から、そんなのどうでもいい、となったときが、わかる。そして、そうなってからのほうが、動きがまだまし。表情まで変わってきていて、これは想像で誰と踊っているときの顔なんだろう、なんて思いながら、かなり客観的に見た。
そしてこの写真↓は動画の最後をスクリーン・ショットしたもの。曲が終わって、想像上の相手と余韻に浸っている図、かな。はじめて、自分が踊る姿を(ひとりだけど。涙)、録画した記念に。
テキーラがのみたいな。明日はテキーラを買いに行こう。