▽映画 ブログ「言葉美術館」

■ドランの「マティアス&マキシム」、アイデンティティを追求する覚悟

2020/10/06

 

 

 その日は、ひと恋しくてたまらなかった。

 だから、このサイトで「よいこの映画時間」を連載してくれている「りきマルソー」(りきちゃん)と楽しみにしていたドランの最新作を観に行けることになって、すくわれる想いだった。

 彼と会うのも久しぶりだったし。

 ドランの映画はりきちゃんから知った。5年くらい前、「Mammy/マミー」が最初、それから「たかが世界の終わり」。

 彼の映画はほかの誰にも似ていなかった。それなりに映画を観てきたつもりだったけれど、その自由さ、監督のこれが創りたい、という想い、誰になんと言われたって、という想い。「ほとばしる」ってこういうことを言うんだ、って胸をうたれた。 

 それから、なんといっても映像美と音楽!

 

 最近では「ジョン・F・ドノヴァンの死と生」にひどく感動した。

 DVDだけど「私はロランス」も好き。ひどく落ちこんでいるときに観て、そこに自分の居場所があるようですくわれたことをよく覚えている。

 それで、最新作ということで楽しみにしていたのだったが、不安もあった。前情報は極力入れないようにしていたけれど、この映画が「恋愛映画」である、ということ。それも「ふつうのラブストーリー」であるということ。それが私を構えさせていたのだと思う。

 いまの私に、そういう世界に共鳴できるものがあるだろうか、と。

 映画がはじまり、だから私はすごく集中していた。登場人物たちは、おそらく30歳前後。彼らの想いに自分を寄せようと、集中していた。私にもあったはずの、ずっと前の、「あのころの私を思い出して、どうか、私」と願いながら観ていた。

 映画が終わって、私は落胆していた。映画にではない。自分に。最後の最後まで、映画のメインテーマであるはずの「恋愛」と共振することに失敗したのがわかったからだ。

 映画を見終わったあと、いつものように食事をしながらのおしゃべりタイム。

 近くのメキシコ料理のお店に、なんとなく入ってから、その日の夕刻、映画の前に、絶筆美術館のラスト、フリーダ・カーロをブログにアップしたばかりだったことに気づいて、偶然の一致にちょっと感激して、メキシコのビールをオーダーしてすぐにりきちゃんに尋ねた。

「どうだった? 感想聞かせて」

 すると、りきちゃんはいつもと異なった反応を見せた。

「いや、路子さんの感想から聞きたいです」

 私は正直に答えた。

 一生懸命集中して「恋愛」を感じ取ろうとしたけれど、失敗したことを。

 ドランは同性愛者でりきちゃんも同じ。それにりきちゃんはドランと年齢も近いし、きっと私には感じとれなかったものを感じているはず。

 けれど、意外なことに、りきちゃんも私と似た感想を抱いていたのだった。

 いろいろ話したけれど、簡単に言ってしまえば、「これって、恋愛映画なのかな?」という疑問。

 タイトルにもなっている「マティアス&マキシム」、これはふたりの男性の名前で、このふたりは幼なじみ。それがある日の、ちょっとしたアクシデント、たった一回のキスで、互いに相手に欲望を抱き、そのことに戸惑う。ストレートだったはずの自分のなかに芽生えた感情に戸惑う。そして、この感情が友情を壊してしまうのではないかという恐れを抱く。

 ふたりのストーリーとしては、そういう理解を私はしている。

 けれど映画はそこをメインに展開されてはいない。マキシムが抱えている母親との確執、将来の不安、友人たちとのパーティー、そこで交わされる会話、会話、会話。

 登場人物たちは20代の後半くらいという設定からすると、その年齢の割には、私にはみんながみんな幼く見えてしかたなかったのだけれど、子どもから大人への移行期、これっていわゆる青春映画?

 映画の予告編とかでは「恋愛」がメインみたいになっているのは、そのほうが売れるからかな。

 りきちゃんが言った。

「この映画は、たとえば、レンタルのDVDとかではどの棚に並べられるにふさわしいか、って考えれば、ヒューマン系、あるいは青春系であり、けっして恋愛系ではないですよね」

 私は100%同意した。

 それからりきちゃんが事前に仕入れていた情報を教えてくれた。

 男同士の恋愛だからとか、そういうカテゴライズをしてほしくなくて、これはふつうのラブストーリーだ、ってドランが言っていたと。

 それに対して、ストレートの人たちが「ほんとにこれってふつうのラブストーリーよね」って言ったりしている、それに自分はひっかかるものを感じる、と。

 それは(いまのところ)ストレートの私にはよくわかる。マイノリティーである同性愛者に対して私は偏見なんてもっていないのよ、そうよ、だからこれって、ほんとふつうのラブストーリーよね、と言ってしまう人の気持ちが。けれど、私自身をも含めて、いやらしさを感じる。私って偏見とかない、そのへんの人たちと違う理解ある人間なのよ、という主張。

 以前からレズビアンであることを公表して、女性同士の恋愛を描き続けている小説家、中山可穂の、私は大ファンだし、人を愛するということの喜び苦しみは、相手が誰であろうと普遍的であると、心底思っている。

 けれど、ずっとずっと長い間、異端とされてきた同性愛者と、ずっとずっと長い間、正常とされてきた異性愛者とでは、やはり、決定的に違うことがある、ということをこの映画であらためて強く感じた。

 幼なじみの男ふたり。彼らが、あるとき互いに恋愛感情を抱いていることに気づいてのその後。

 幼ななじみの男女。彼らが、あるとき互いに恋愛感情を抱いていることに気づいてのその後。

 では、まったく違う。 

 同性愛の場合は、やはりどうしてもそこに大きな壁が立ち塞がるだろう。互いに自分はストレートだと思っている場合は特にそうだろう。

 誰かを好きになって、相手も自分を好きだと知ったとき、それを何の障害もなく喜べる恋愛というのは、社会に公言できる恋愛だ。異性愛の場合であっても、好きになった相手が既婚者であれば、それが障害となり公言することは難しい。

 そのように考えて、自分の経験から私は同性愛者の人たちの心情に寄り添おうと試みる。けれどそれはどうがんばっても想像でしかない。それが私はとてもはがゆい。人を理解するということの難しさを知る。

 もやんもやんとして、帰宅してからネットでいろんな人の意見をひろう。どれもピンとこない。

 そして、ドランのインタビューを観た。

 そうしたら、私のなかの何かが氷解した。

 一部、抜粋。

「男性特有の曖昧さや優柔不断さには、僕もずっと悩まされてきた。新しい自分を発見したいと言って僕に近寄って来るんだ。そんな彼らを僕は信じて世界を広げてあげようとする。でも恥じらっているのか迷いがあるのか周囲に秘密にする人が多い。

 好奇心を満たすために気軽に誘ってくる人もいる。とにかく僕の人生はそのような恋愛の連続なんだ。恋愛というより出会いの方が正しいね。

 マティアスとマキシムは幼なじみで仲がよく2人ともストレートという点に最初からこだわっていた。

 2人は予期せぬ感情に襲われ完全に不意をつかれるんだ。長年くすぶっていた想いというわけではない。これを機に彼らは気づく。

 人は感情を揺さぶられてから魅力を感じるとね。魅力じゃないな、……何て言えばいいんだろう。欲望のほうが正しいね。

 2人は1回のキスに完全に翻弄されてしまうんだ。そのことが頭から離れなくなり友情関係にも次第に影響が出てくる。残念なことだけどね。

 つまりこの映画のテーマは決して同性愛ではない。テーマは愛なんだ。

 その瞬間が突然やってきたとき、どう反応すべきか。
 僕たちは周囲から枠にはめられがちだ。ストレートかゲイかバイセクシャルか。
 2人ともその枠にとらわれてしまう。

 変わりたいと思ってもそこにはリスクが伴う。

 本当に自分のことを理解しているのか。アイデンティティを追求する覚悟はあるのか。という問いかけ。

 自分はリベラルな人間だと思っていても、じつは固定観念に縛られている場合がある。

 セクシャリティは一度どれかを選んだら変えられないってね。それが隠されたテーマでもある」

 

 そうか、そうなんだ。

「本当に自分のことを理解しているのか。アイデンティティを追求する覚悟はあるのか。という問いかけ」

 これが、私のなかのもやんもやん、言葉にできなかった部分だった。

 見知らぬ感情、見知らぬ欲望に突然襲われる可能性。それは誰にも起こりうること。ただ、そのとき、リスクを恐れて目をそらして誤魔化すか。それとも自分の内面をみつめ、それこそ「アイデンティティを追求する覚悟」をもつか。そういうことなんだ。

 ドランが言うように、自分はリベラル、って思っていても、ぜんぜんそうじゃない場合が多い。私なんてその好例だろう。うそつきリベラル。固定観念にぐるぐるに縛られている。あらゆる方面で。

 ドランが言うように、同性愛を体験したいという好奇心をもち、それを満たすためだけに近づく人、それは私だろう。実際の行動に起こしてはいないけれど、好奇心は抱き続けている。私が好きな芸術家にはバイセクシャルの人が多いという理由だけで。好奇心というより私の場合は憧れに近いのだが、それだけでレズビアンの人にいかにもってかんじで接触するのは卑劣な行為なのだと自覚しなければならない。

 

 まだまだ言い足りないことがあるけれど、このへんにしておこう。落ちこんできそうだから。

 すごく感動して胸がいっぱい、とは違う。でもこんなに頭がこんがらかるほどに、さまざまなことを考えさせられた映画は久しぶりだった。

 グザヴィエ・ドラン。1989年3月20日生まれ。これ、20代の最後に作った映画だって。みなぎる創作意欲がいまの私には眩しい。

 

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