▽映画 ブログ「言葉美術館」

■「伝える」ということ。『ルーシー』と『博士と狂人』と。

 ある日、ぽっかりと予定があいて、体調はけだるく次作資料文献を読む気にもならず、家にひとりきりという条件。今日は映画の日にしよう、と決めた。

 フィルマークス(Filmarks)で観たい映画としてクリップしているものから、どれにしょうかなあ。

 サスペンスやミステリーばかりを選ぼうとしていることにふと気づく。恋愛ものはパスしていることに気づく。映画選びはいまの自分のきもちをこんなに映し出す。

 考えたくないこと、向き合いたくないことがなんなのか、ということ。

 もう、いろんなことに疲れちゃって思考したくないから、とにかく楽しめるものを、と三本続けてみた。めずらしく「大ハズレ」はなかったけれど、すぐに記憶からなくなってしまうだろう。すでにタイトルが思い出せない。こういうのを時間潰しというのだろうか、それとも、いまは意識していなくても、なにかしらは私のなかに残ったのだろうか。

 お昼ころに起きて三本も観れば外も暗くなってくる。夜景に見惚れてから、以前からいつか観ようと思っていた『LUCY ルーシー』を。頭も目も「もう観ないで、疲れたよー」と言っているが、強行。アクション・SFって分野の映画ね。

 

 スカーレット・ヨハンソンが主演でリュック・ベッソンが監督だから、すっごくハズレということはないだろう、くらいのきもちで観始めたのだが、引きこまれてしまった。

 いろいろツッコミどころはあるけれど、おもしろかった。とはいえ、私の知識感性ではぜんぜん受け取れていないことは確実。それでも、人間の進化とか脳とか、自分がいまここにいる意味、みたいなことを考えさせられた。いや、考えさせられた、というより、なんだか、そういうことが「わかった」気になった。

 死を想ったり、老化を想ったり、時代の移り変わりを想ったりするなかで、もやんもやんとしていたことが、ふんわりと頭上におりてきて、「わかった」ように思った。

 映画の説明はいろんなサイトにあるから省くけど、人間の脳はふつう10%しか使われていないらしく、けれど、ある薬で10%以上使えるようになって「覚醒」しちゃうの、ルーシーが。それで、もう人間超えちゃって、いろんなことができるようになり、いろんな知識で頭がはちきれそうになってしまう。でも100%になったとき、自分の肉体はなくなる、って自分でわかっている。

 100%になる前に、ルーシーは有名な脳科学者に尋ねる。

「知識が脳のなかで炸裂するの、一体どうすればいい?」

 脳科学者は、ルーシーのいろんな能力に、もうびっくりしちゃっているんだけど、それでも考えて次のように答える。

「生命の意味、生命そのものの始まりを考えてみよう。最初の細胞はどう変化するか。ふたつに分裂する。生命の唯一の目的は、学んだ知識を伝えることだ。それより重要な目的はない。きみの知識をどうすべきかと聞くなら答えよう。伝えるのだ。まさに時の流れを生きる一つの細胞のように」

ーー伝える。

ーー時の流れを生きる一つの細胞。

 

 このシーンを観た瞬間、かなり前に観てすごく感銘を受けて、ブログに書きたいと思い続けていた映画のことを思い出した。いま調べたら2021年8月だって。いったい何をしていたんだ私は。

『博士と狂人』。

 この記事書くために、後日また観た。ほんとうにふかい映画だと思う。

 とってもおすすめ。

 

 

 

『ルーシー』から連想したシーンはラスト近くにあった。

 映画は、オックスフォード辞典を編纂する学者の話で、「狂人」であり天才である男との友情などがあるのだけど、とにかく。

 辞典の編纂は、ほんとうに気が遠くなるほどに時間を使う。一生かけても無理、くらいに。

 それで、私がはっとしたシーン。

 辞典の編纂に人生を捧げた学者が、辞典を完成させることができないことについて友人に言う。

「あらゆる言葉の歴史を記録したかった。神が創造した万物の意味を伝える本によってね。少なくとも英語の部分を。だが私の負けだ。たいせつなものをすべて捧げてきたのに」

 これに対して友人が言う。

「それはほかの書物がもう成し遂げている。きみよりもずっと前にね」

 それから学者をいざない、子供部屋を開けて、自分の子どもたちの会話を聞かせる。その会話にはいわゆる「新語」がたくさん。

「あの子たちの話を聞いたか? 言葉は生まれ続ける。未知の言葉がどれだけある? きみが作った辞典にどれだけ載ってる? 永遠に変わらない言葉はない。言葉は生きている」

 博士はすこし考えこんで、それから友人に問う。

「完成しない仕事をどう終わらせる?」

 友人は答える。

「偉大な驚きをもたらしながら、きみは土台を築き上げた。次の世代がそれを引き継ぐ。きみを道標にしてね。終わりなき旅なんだよ」

 私ははじめてこのシーンを観たときに、「ああ、そうなんだ、そうなのか」とすごく大事なことを得たように思ったのだった。

 ぜんぶ自分でしなくてもいいんだ。自分が生きているときに、できるだけのことをして、あとのことは次の世代の人たちの仕事となるんだ。

 

 『ルーシー』と『博士と狂人』から私が受けとった共通のことは、「自分という存在は大きな時の流れのほんの一部にすぎないのだ」ということ。そして、「存在している間にすべきことは、伝えるということ、これにつきる」ということ。

 いまは雑念に支配されているシーズンを過ごしているので、うまくまとめることができないが、ここに記しておこう。

 と、いったん、ここで記事から離れ、気になっていたメールの返事を書いた。

 取材依頼へのお断りのメールで、でも、その理由をきちんと書かなければと、かなり時間をかけた。

 オードリーの本をなぜ書いたのか、という問いがあり、それに対して「私がオードリーを書いた理由は本に書きつくしたつもりです」と書いて、たしか、書いたよね、とふと不安になり、自分の本を手に取って、あとがきに目を通した。ブルーモーメントから再生した『それでもあなたは美しい オードリー・ヘップバーンという生き方』の。

 そしてびっくりしてしまった。

 「再生版あとがき」の趣旨が「伝える」だったからだ。

 そういえば、そうだった。このとき、そんなふうに思ったんだな。って読んで思い出したけど、まったく、何年か前に気づいた、たいせつなことを、いま、はじめて気づいたかのように思うだなんて、これってどうなのよ。

 記憶力が悲しいようにも思うけれど、ふたたび気づいた、ふたたびたいせつなことを発見したことは、きっとほんとうにたいせつなことなんだね、ということにしておこう。

 

 私はほんとうに情けないダメ人間だな、と嘆きの日々のなか、これ以上自分を落としたくないんだもん。

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