▪️『六つの心』自分のなかの地獄の炎と「誰も悪くない」
アラン・レネが84歳のときに撮った『六つの心』。
雪がしんしんと降り続けるパリ、6人の男女の群像劇。しずかで深かった。雪がずっと降っているのにあたたまったみたいになった。
いくつかのシーンが胸にとどまっている。
たとえば。
長年つきあった男女が別れることにするのだけど、最後のレストランでの会話。
女:あなたは私に興味がないし。
男:そうは言ってない。
女:いいのよ。私もあなたに興味がないから。
男:昔、寄宿舎から家に帰る列車の中で、あなたに会える嬉しさで心臓が飛び跳ねてた。歌を歌ってるみたいに。
女:今日ここに来るときの心臓はちぢこまってた。……これも人生ね。
男:そうだな。
女:怒らないで。誰も悪くないの。(席を立ちながら)またどこかで会えるわ。避けないでよ。さようなら。体に気をつけて。新しい恋人とうまく行くように祈ってるわ。
ここに浮かび上がる男と女の、なんていうんだろう、器、しか浮かばない。器の差。
「あなたは私に興味がないし」といった女に男は、たぶん、つい、クセで、思ってもいないのに、そんなことない、と否定する。思いやりだという認識なのかな。それに対して「いいのよ。私もあなたに興味がないから」とサクッと言う女。
そうだよね、お互い興味がなくなったから別れることにしたんじゃないの。
最後の彼女の「誰も悪くないの」。真実があって好きだと思った。
また、恋人同士ではなくて、知り合い程度の男女の会話。女性は熱心なキリスト教徒。
男:結局、人間は孤独なんだ。
女:私の考えでは、もう少し複雑なはず。私も地獄は信じてないし天罰も信じてないわ。地獄があるとしたらきっと私たちのなかにある。自分の弱さが地獄の火を燃やすの。自分で火を消さなければ自分が燃える。そして他の人まで…
男:自分のなかに地獄が?
女:ええ。そう思うわ。
彼女の意見に、なるほどーと頷いてしまうのは、彼女は敬虔なカトリックでいつも聖書を手にしているようなひとなのだけれど、ボンテージっぽい格好をして性的な行為をする自分をビデオに撮っている。そしてそれを間違って重ねて録画してしまったふうにして同僚の男性に見せたりしている。そういう趣味がある。
けれどそうなのか。彼女にとってその欲望は、自分のなかにある地獄の炎であって、その火を自分で消すために、そのようなことをしているのだ。
みな、それぞれに、ひとには言えないような方法で自分のなかの地獄の火を消しているのだろうか。
聞くのもこわい。
この映画を観た次の日の夜だったか、久しぶりのお友達とびっくりするほどの長時間、電話をして、そのときの会話がいま頭の片隅に残っている。
愛憎の話をしたのだった。愛と憎しみは表裏一体というけど、表裏一体といえるくらいになるには、愛も憎もそうとうじゃないとね。そこそこの愛だったら憎しみに豹変することすらできないんだよね。表裏一体の愛憎ってものすごいエネルギーが必要だよね。憎しみも自分のなかのエネルギーをすごく費やすんだよね。そんなこと。いっぱいしゃべって、こんなに私はこれを欲していたんだ、ってびっくり。