▪️「寄り添う」という友情『ザ・ルーム・ネクスト・ドア 』
『ザ・ルーム・ネクスト・ドア The Room Next Door』には私の理想の最期が描かれていた。そう、理想の最期があった。そして、このところの私のテーマでもある友情も。
いい映画を観たあと特有の、しんと静まり返った余韻のなかにいる。
あの外界から隔絶されたコテージやピンクの雪。
りきマルソーと一緒に行ったので、きっとそのうち「よいこの映画時間」に、観た直後の会話を彼がアップしてくれると思う。私は白の、彼は赤のサングリアを飲みながらの会話を。
パンフレットは彼がいつも買う。私はいつもそれを読ませてもらう。昨日は、時間が遅かったこともあり、読むことなく帰宅して、そうしたらアルモドバル監督が映画に寄せた文章を彼が写真に撮って送ってくれた。
「寄り添う」という言葉が胸に沁みた。
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寄り添うということ。言葉を必要とせず、誰かと一緒にいること。ただそばにいること。苦痛にも喜びにも寄り添うこと。
広い心で惜しみなく誰かに寄り添えることは、相手に大きな幸せを与えられる資質のひとつだ。愛情や友情、あるいは兄弟愛といった素晴らしい感情にも優る資質である。
気持ちを慮り支えながらただ黙って一緒にいることが、この上なく相手のためになることもある。
また、寄り添うことの延長線上にあるような「よい話し相手になる」必要さえない。つまり話をする必要はなく、相手の話に熱心に耳を傾けながら寄り添うことが望ましい。そうすれば、話し手は寄り添って話を聞いてくれる人の目を見て、自分の言葉がその人の心に響いていると感じられる。
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本作は、ふたりの女性がこの世とあの世の間に存在する辺獄のような場所「森の中の家」で数週間を共に過ごす中で、再び友情を深め、その友情が愛に似ているが愛につきものの不自由さのない感情へと昇華していく過程を描いている。
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このところの私のテーマ、「友情」を考えるときのキーセンテンスになるかな。
「愛に似ているが愛につきものの不自由さのない感情」
ティルダ・スウィントンとジュリアン・ムーア。ふたりの女優が素晴らしくて、息が止まるくらいに……ああ。
「HAPPER'S BAZAAR」にティルダ・スウィントンのインタビューがあった。
尊厳死について語っている部分が興味深かった。
この映画は「それは尊厳死なの? 自殺なの? 尊厳死と自殺を隔てるものはなんなの? 違いはなんなの?」といったことも深く考えさせられる。
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絶望的な状況のなかで一番避けたいのは、誰かが何もできないのに動き回って、何かしようとすることです。ーーティルダ・スウィントン
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死を宣告された人に「あきらめないでがんばって」ということはどうなのかな、とか「これを試した方がいい」ってあれこれもってくるのはどうなのかな、ということを考えて、私はどうだろう、あのときどうだったのだろう、といったことも考えた。
何がその人にとっての最善かを私なりに考えるしかない。私の希望をおしつけることで、やった感を得て免罪符を手にしたような感覚になったりしないように。それは違うから。暴力に近いから。
逆のときも、周囲の親しい人たちには、私の望みを受け入れて欲しい。
「ザ・ルーム・ネクスト・ドア(隣の部屋)」じゃなくて、映画館、隣の席にはりきマルソー。
彼には映画が終わったあと、そんなときがきたら隣の部屋にいてね、とお願いしたけれど、「最期は自分で決めたいけれど、ひとりは嫌だから、隣の部屋にいてほしい」と言える相手として、ほかに誰が思い浮かぶだろう。
映画では旧友だった。何年も会っていなくて再会して友情再び、という友だった。
ーー尊厳死を選びたい。そのとき隣の部屋にいてほしい。
そう言える相手ってそうはいない。
映画では最期を共有できる相手の条件がいくつか提示されていたように思う。
とても親しい時間を共有したという過去があること。けれど、ある一定の距離感があるということ。知識や教養のベースが一緒だということ。尊厳死というテーマに向かいあったときヒステリックにならない知性があるということ。経済的な余裕があるということ。あとはなんだろう……そうそう、アルモドバル監督が言うところの「愛に似ているが愛につきものの不自由さのない感情」がそこにあること……。
雪が美しかった。生者、死者の上にひとしく降る雪が。いまは寒波でたいへんな地域もあるけれど、あの日の軽井沢の、初雪の風景をなつかしく思い出した。