▽映画

▽いまを生きる

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20何年ぶりかに、「いまを生きる」を観た。

この映画、弟と二人で明大前のアパートに住んでいたときに、映画を観た弟が興奮して「Seize the day! Seize the day!」と叫んでいたことをよく覚えている。

この英語は、「今日という日をつかめ」、ぎゅっと強くつかめ、って、そういう意味で、「いまを生きる」って表現で邦題になっている。

私も、二十代のはじめに観たときは感動して泣いた。

そして、先日、観て、やはり感動したけれど、以前には見なかったもの、感じなかったことがあって、でも、それほどのものではない、と判断してノートにもとらなかったし、ここに書くつもりもなかった。

けれど、ひっかかっていたみたいで、日常のふとした隙間に、ふと現れて、頭を占領するから書いておこうと思う。

物語は、伝統と規律でがちがちの男子校に英語の先生がやってきて、その先生が、その高校にはいないタイプの人。

つまり、個人の感受性に価値を置き、人生は一度、いつ死ぬかわからないのだから、自分のしたいことをすべきだ、と生徒に教える。

影響を受け、それを表現する生徒、影響を受けているけれど、それを表現しない生徒、そして、受けない生徒とが、たぶんいる。

強く影響を受けた生徒が、したいことをし、けれど、目の前の困難の前に自殺するという悲劇があり、その責任を問われて英語の先生は学校を去ることになる。

ラストシーンは、「その後の懲罰」があるだろうに、それでも、机の上に立ち、去ってゆく英語の先生を「支持」していることを伝える、一人、また一人、と机の上に立つ生徒たち。

胸熱くなるシーン。

けれど、私の頭のすみっこに、こびりついてしまったのは、机の上に立つ生徒たちではなく、立たないでいる生徒たちの背中なのだった。

この生徒たち、一人一人に思いを馳せて、考えてしまう。

去ってゆく英語の先生、こういう、いわゆる熱血で、秩序というものからはみ出るような人を嫌う人だっている。

その教えに疑問を感じる人もいる。

先生のことをいいなあ、と思っていても、机の上に立つまでの気持ちがない人だっている。
なにか、この小さな教室に、社会の縮図を見て、だから難しいんだ、いろんなことが、そんなふうに思う。

そして、こういう、机の上に立てるような人々がまとまって行動したときのエネルギーは、おそろしいものがあるなあ、とも思う。マジョリティの権力。

よくわからないけど、ひとつだけ私のなかで確かなことは、机の上に立たない、あるいは立てない人たちを非難することは間違っている、ということ。

私はむしょうに彼らと話がしたい。

机に座ったまま、背を緊張させている生徒たち一人一人と、私は話がしたい。

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