▽映画 ブログ「言葉美術館」

▽ニュー・シネマ・パラダイス

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 ジュゼッペ・トルナトーレ監督の『ニュー・シネマ・パラダイス』オリジナル完全版(ディレクターズカット版)をはじめて観た。3時間。

 2時間の劇場公開版は何度か観たように記憶しているけれど、でも、もうそれも20年前の話、ラストのキスシーンのイメージは残ってはいても、記憶はあいまいだった。

 これまでに、それほど親しくはない数人の人から、この3時間バージョンが良くないこと、2時間の劇場公開版は素晴らしいけれど、こっちはもうダメダメみたいなことを、なぜか、聞かされていたものだから、観ることもないのかとほおっておいた。けれど、語りと歌のコンサート「映画音楽と物語」で、この映画を取り上げることになり、観なければならない状況になり、意を決して観た。

 そうしたら、ほんとうに、面白かった。私の言う「面白い」には、「謎解き」も含まれる。2時間版では謎のままだったことが、きっちりと明かされている。

 ここで評価が分かれるのだろうな、とは思った。評価、って偉そうで嫌だな……ほんと、とっても嫌だ。

 とにかく私は、つくづく「編集」マジックを思ったのだ。そう、どこをカットするかということで、まったく別のものが出来上がるこということ。

 イザベル・ユペールが出ているというだけで観に行った『母の残像』、これは戦場カメラマンを母親に、妻にもった人たちの物語で、限りなくジュリエット・ビノシュの『おやすみなさいを言いたくて』と似ていて、これについても、いつか書きたいのだけれど、この『母の残像』で印象的に語られているのが「トリミング」だった。

 トリミングされた一枚の写真、集合写真に見える。しかしトリミングしなけれは、彼らから数メートル離れたところに、彼らに向けて銃を構えた兵士たちがいる。となれば、まったく別の光景となる。

 そう。どこをトリミングするかで、しないかで、一枚の写真がまったく別の光景を表現するということ。

 ニュー・シネマ・パラダイスの編集も、これと同じだ。

 それで、『ニュー・シネマ・パラダイス』は、少年から青年へと成長するトトと彼のずいぶん年長の友人アルフレッドとの気持ちの交わりを中心に描かれていて、その舞台はイタリアのシチリアのとある田舎町の映画館で、このふたりは映画をこよなく愛し、村の人たちも映画という娯楽に夢中で、そこにトトの恋愛がからんできて、あれこれある、そういう物語。

 トトは十代の後半にはじめての恋を経験する。相手はエレナという、お金持ちのお嬢様。

 生まれも育ちも自分とはつりあわないけれど夢中になって、強引にアプローチした結果、エレナもトトのことを好きになって、エレナの両親に反対されていることもあり、ふたりの気持ちは燃え上がる。

 けれど、やはり親の反対の前にふたりは引き裂かれる。トトはなんとかエレナと連絡を取ろうと思うけど、いろんな手を使っても行方がわからない。エレナに裏切られたと、エレナに捨てられたと、ひどく落ちこむトトに、アルフレッドは村を出ろ、ローマにゆき、自分がすべきことをしろ、と言う。そして村を出たら、帰ってくるなと。ホームシックに負けずにがんばれ、手紙も書くな、自分のことなど忘れろ、俺はお前とはもうおしゃべりしない、俺はお前の噂を聞きたい、と言う。

 ようするに、トトの才能を見抜いていて、その才能を発揮させるために、厳しいことを言ったわけだ。

 30年後、アルフレッドが亡くなったという報せをうけて、トトはじつに30年ぶりに村に戻る。彼は有名な映画監督として、人生で大成功している。まさにアルフレッドが望んだように。

 そしてトトはエレナに再会する。そして、エレナの口から、思いがけないことを聞く。

 実はトトとエレナの仲を引き裂いたのはアルフレッドだったというのだ。

 その理由はこれ。

 恋なんて、いずれは燃え尽きるものなのだから、恋なんかで将来を無駄にしてはいけない。トトはエレナと一緒になったら、自由に大きく羽ばたくことはできないだろう。ここはエレナに身を引いてもらって、傷心のトトを、もう村のことなんて思い出したくもない! という気持ちとともにローマに行かせたい。

 このアルフレッドの策略のおかげで、トトは映画監督として大成功したわけだ。

 私は観終わった後、「アルフレッドがしたこと」について考えこんでしまった。

 アルフレッドは、村を出たことがなく教育もまともに受けていない「お年寄り」で、しかも映画館の火災で盲目となっていて、トトのことを、とっても愛している。

 この条件だけで、アルフレッドは、行為を責められることを免除されているように思う。「アルフレッドがしたこと」を責めにくい空気を私は感じる。

 もし、アルフレッドが「大成功している国会議員」とか「大成功している作家」とかだったらどうだろう。「おまえの考えをおしつけるな、人の人生を操るな」とか言いたくならないだろうか。私はなる。

 だって、トトはほんとうにエレナのことが好きだったし、30年間、ずーっとエレナのことを忘れられずに、誰とつきあってもエレナ以上に好きになれずに、50歳くらいになっている。

 人生の成功というのは、どの角度から見るかで、確実に、異なる。

 現在のトトの姿は、一般的にも成功だし、アルフレッドからしてみたら成功だ。しかし、引っかかる。すごく引っかかる。どうなのだろう。トト自身はどうなのだろう。

 歴史に「if」はナンセンス、と教えられてきて、その通りだと思うけど、考えずにはいられない。もし、あのとき、アルフレッドが「それ」をしなかったら、と。

 アルフレッドのしたこと。アルフレッドの考え。

 恋、いずれは燃えつきて灰になるとしても、燃えたことのない、燃え尽きたことのない、若い人に「あ、それはいずれは燃え尽きるからやめときな」と忠告することってどうなのだろう。それどころか、策略でもって、恋を諦めさせるってどうなのだろう。

 恋は、そうだよ、いずれ燃えつきて灰になるんだよ。

 でも、燃えて、燃えつきてはじめてそれを知り、それを受け入れるという、豊かな試練がそこにある。

 さらに、アルフレッドはトトに映画監督になること、そうではないにしても、なにかクリエイティブな仕事を望んでいたように思えるから、だとしたらなおさら、そういう種類の仕事に就く人には、豊かな試練が必要なのだと思う。

 いいえ、そんなことをきっとアルフレッドは考えないのだ。

 そういう教育を受けていないとも言える。知識、教養がないということからくる無邪気な正義感、無邪気な愛情がそこにある。

 この映画は監督の自伝的要素もあるという。

 監督は「アルフレッドのしたこと」を肯定も否定もしていないように思える。

 あの、悪人からは程遠い気の優しい親友が、自分のためを思ってそれをやっちゃったんだから、まあ、しょうがないと、受け入れているように思える。自分が未熟で欠点もあるように、親友だって未熟で欠点もあるのだからと。そんなふうに思っているように私は感じたけれど、違うかな。もっと肯定的なのかな。

 いちばん心に響いたセリフはこれ。

 駅のホーム。アルフレッドがトトとの最後の別れのときに、身体の真ん中から絞り出すようにしていう言葉。

「何をするにしても、自分のすることを愛せ」

 これは「自殺することなく生き抜け」という言葉に限りなく近いと私は思った。

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 二週間くらい前に、この原稿を書いて、それから下書きに保存したまま時が経った。イベント後の脱力状態からなかなか抜け出せないでいるなか、この原稿を仕上げることから動き出そうとしている。がんばれ私、程度ではどうにもならない。お願い、どうかがんばってくださいませ私、ってかんじ。それでもなかなかしぶといぐーたらな私。

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